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中山道

2012年5月 2日 (水)

中山道ウォーク(24)謡坂一里塚→今渡

前回のゴール地点にあったマリア地蔵像は、いわれのあるものだったんですね。
いつも帰宅してから足跡を振り返るんですが、それは地中から掘り起こされた物と聞いて反省。
今回は彼女の写真を撮ることから始まりました。
謡坂を降りていくと激しい崖崩れの脇に耳神社がありました。
耳は遠くないし、人だかりがしていたので通り過ぎました。
牛の鼻欠け坂も東から来れば下りなので難なくクリア。
楽勝なんですが、これで松井田あたりから長く続いてきた中山道の山岳部が終わります。
まだ横川から塩名田の区間が残されているので楽しみは続きますが、塩名田から延々と歩いてきたアップダウンがなくなると思うとさみしさで、胸がキュンと鳴りそうです。そして御嵩新道と呼ばれる江戸幕府が開拓した御嵩ー大井間の中山道も終わりです。
合流した道は国道21号のようですが、交通量はそれほど多くなくてよほどお気楽に歩けます。
御嵩宿を抜けた後にまた合流します。
中山道は御嵩宿へと曲がっていきます。
住宅地が宿場になり、変化が宿場の中心部へと誘い込みます。
中心部に向かって少しずつ古い家が増えていき本陣跡あたりが最も宿場の雰囲気を残しています。
竹屋という建物を公開しているというので、見学します。
間口が広く、奥行きもすばらしく深い。聞いたところでは奥行きは現在よりも深かったそうです。
宿場や町家は間口幅によって課税されていたというけれども、課税制度などは管理部署によって違っている。宿場もすべてが幕府直轄ではないので御嵩がどうであったかはわかりませんが、奥行きが深いのは例外なく、間口が大きければそれこそが大家ということになります。
店も住まいもきちんと手入れされているのは、この家の住人がよほど大切に扱ってきたからだと、内部の展示写真を見れば気付きます。
建物を背景にして人の写真を撮ると言うことは、建物自体に思い入れがあるということ。内庭に突きだした桟敷などにもそういう気持ちがくみ取れます。
とにかくきれいに管理されているのが気持ちいいところです。
隣は駐車場のようになっていますが本陣跡だそうで、竹屋と隣り合わせだったとか。
ちなみに竹屋の元の大きさというのは、Yahooあたりの地図でも確認することができます。
さらにとなりは中山道みたけ館。
1階が図書館で二階が資料館、宿場がテーマのひとつとあっては通過はできません。
無料とは思えない充実した内容です。
宿場以外には亜炭の展示が目立ちます。
そういえばここから高蔵寺あたりかけては亜炭鉱があり、地面が陥没したというニュースを子供の頃聞いた記憶があります。
でも今は昔。静かな里になりました。
みたけ館の前におそらく枡形があったと推察されるのですが、入り隅側を削って道路を拡幅したために枡形はなくなっています。
まっすぐ行けば名鉄の広見線が突っ込んでいます。
こりゃあ露骨だなあとうれしくなる配線です。
鉄道の向きは宿場の南側を抜けたそうですが、そもそもこの鉄道が何を目指したのかよくわかりません。
多治見からわざわざ鉄道を敷くほど御嵩は繁栄していたのだろうか。
まさかこの先大井まで敷こうと考えたのではありますまいな。
宿場を抜けて何度か折れ、国道21号と合流します。
時々旧道を分かちながら西進していきます。
伏見宿への上り坂を前にして国道21号を外れて側道に入り、名鉄八百津線の廃線跡をまたぎ、のぼり上がった地点が伏見宿の本陣跡でした。広い土地が本陣の敷地であったことを感じさせてくれるだけで、それらしき雰囲気は皆無です。
この宿場にとって不幸だったのは、中山道が相変わらず主要道路として利用されていることでしょう。
二桁の国道としては車は少なめだけれど、時に大型車までが通る。
絶望的な気持ちで歩けば、すぐに商家が見えてきました。
ちょうど上ってきた坂の頂点の平地になるのかしら。
古い商家が左右に固まって残っており、その一端にどうみても郵便局にしかみえない小さな建物がみえました。かつては醤油屋に付属していた建物であることは一目瞭然。
大家が郵便局を兼ねていたのでしょう。
今で言う特定郵便局かな。
そこが地元のふるさとづくりセンターが拠点としている”らくだ”という建物です。
中ではほぼ原形を保ちながら喫茶店を営業している。
うちらはみやげに伏見宿の浮世絵がデザインされたマグカップとてぬぐいを購入。
妻籠でも馬籠でもなく伏見宿のマグカップ。
ちょっとおしゃれ?そうでもない?^^
この郵便局跡の付近だけが、宿場であったことを主張していますが、表の手入れがなされておらず、ただのボロ屋になってしまっているのが大変に残念です。
ところで、この建物群の前の国道は、道幅が普通に国道幅(?)ありますが、街道の両側に古い家々があるということは、宿場時代からこんなに道幅が広かったのでしょうか。
調べてみると元禄頃に作られた新しい宿場らしいので、最初から高規格で作られたのかもしれません。
ここまで来ると坂を下りて今渡を目指して歩くだけ。
ちょっと規模が大きすぎるかもしれませんが、ここも木曽川の河岸段丘といえるのでしょうか。
三留野以来の木曽川です。といっても中山道から水面は見えませんが。
下り着いてゴール。

2012年4月11日 (水)

中山道ウォーク(23)北野神社→謡坂一里塚

さて、今回の中山道ウォークは山の中。
前回のゴールであった北野神社から始まります。
先々週降った雪は未だ溶けきらずに凍り付いており、あちこち避けて通らなければいけませんが、実は道路から浮いていて、踏むとパリッパリッと音を立てて割れます。

早速緩やかな上りが来て、三面の馬頭観音がたっているのは焼坂が馬頭観音。
憤怒の表情だそうですが、正面の顔は欠けてしまってよくわかりませんでした。
他の顔は怒ってる....と思う。
なぜ怒ってるのかなんてことはいっさい分からず。いや、毘沙門天のように恐い顔をしているんじゃないか。

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焼坂を下ると池があり、池中にはジュンサイやらカキツバタが植わっているらしいです。
水は凍り付いて鏡になっており、対岸の木々を映していました。
もう少し日が照っていれば、けっこう見応えのある風景です。
太田南畝が壬戌紀行に書いた弁財天も現存しています。

このあたりの中山道は、下街道に旅人を取られていました。
幕府は何度も下街道を利用しないように呼びかけてますがあまり効果なく、ついには明治になり下街道がメインルートとなって、中山道
は廃れることになりましたが、幕府の力が弱まるに従って通行量も減ったと推測すれば、このあたりの風景も当時とさして変わりがない
ということになります。茶屋など旅人相手の産業は消え去るのみですが、風景や道路の形状というものは変わる必要もなくなるというこ
とです。
また江戸−京間の新交通システム(鉄道)が東海道経由となったことから、一層衰退に拍車がかかったと考えられます。
どうにか幕府の力で保っていた区間ということができるんじゃないかも思えます。江戸幕府がわざわざ作った道ですからねぇ。
道という物はもともと自然にできるものであって、作る物ではないということを証明しています。
尾根道をトロトロと歩く。
交通史やら合理性を考えながら、変化のない道をニンマリしながら歩く人たちでした。
他の参加者のおばちゃんたちに「おねーちゃん(妻のこと)」の写真も撮ってあげなよー」と冷やかされながら。
その上道路端には落ち葉が重なっていろんな葉っぱが積み重なっている。
妙な花が咲いているんじゃないかと目をやるから忙しくも楽しい道中です。
ただしみるほどの物はありません。集落がないのだから、人文的なものは何もない。旅人相手の馬頭観音や道祖神ばかりです。
その罵倒さんや道祖神ですが、ここは石垣に保護された祠に納まっていることが多いのです。
しょせんは石なので、わざわざ囲いを設ける必要もないと思うのですが、どういったつもりでこんなことをしているのか。
他の地域では見られないだけに、不思議な感じがします。

なだらかなアップダウンをいくつも繰り返して歩くと、細久手宿はすぐです。
工場が表れると次は民家。
民家がそのまま細久手宿です。
宿場の入り口には「日吉第二小学校跡」の文字がありましたが、記念碑自体が新しいし、命名の方法から古い小学校ではないとわかると
過疎化による廃校しかなく、静かさと相まって寂しさが漂います。
宿場ともなればこのあたりの中心であったろうに、なぜに細久手学校などと名付かなかったんだろうなぁ。
日吉小学校のホームページによれば、大正2年(1913・癸丑)に日吉小学校から細久手分教場として分離し、昭和58年(1983・癸亥)
に閉校されたとあります。

細久手は坂の宿場です。
古い家はほとんど残ってなくて40年くらい前の農村のよう。
古いホーロー看板がちょくちょく放置されたような町ではあるけれども、家々はきれいで新しい家が多いのは、瑞浪や土岐、多治見などの都市が通勤圏にあり、留まって暮らせるからでしょう。

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宿場として目を引くのは、やはり大黒屋でしょう。幕末安政年間に建てられたというのだから、築150年越え。宿泊客がいなければ見学
できるっていう話しは以前から聞いていましたが、この日見学できるとは思っていなかったので、大したもうけもんです。
諸サイトではボロボロだということばかりが書かれていますが、それよりも格式の高さに驚きます。1階には相当りっぱな書院があり、
そこは上段の間となっています。2階にも書院があるのですが、これはどういう使い方がなされていたのか。
控えの間とおぼしき隣室にも床の間が用意されており、例えば二川本陣の上段の間よりも格式で言えば高いじゃないだろうか。部屋の
構成吹き抜け等、他で見たことのない構造で大変に興味深い。
「尾張藩定本陣」というが意味合いがよくわからない。
尾張藩公が江戸へ下るならば、東海道を利用することになっているはず。大黒屋のサイトでの解説には「他の大名との相宿を嫌った」とあるが、大名同士の相宿などあり得るはずがない。たぶん尾張藩の公用役人が利用したと思うけれど、それにしても豪華すぎるつくりです。
見学可能な部分はすべて見学しました。
一番古びた部屋が”書院”で、底冷えがする感じ。
夜は何か出そうな感じ^^;
他にもきれいな部屋はたくさんあるんですが、多数ある部屋の中から泊まるならここしかない。
寒さも旅のひとつの要素ではあります。
「必ず泊まりに来ます」と言うと、「ぜひ季節のいいときにおいでください」と。
いや、細久手との初対面が冬なのだから、ぜひ冬に。

細久手の町外れを北に入ったところで、昼食。
ここから少しきつい上りを上がります。西の坂というらしいが、相当きつい。
肩で息をしても間に合わないので、息を”つく”。
腹一杯食べてはいないけれど、胃に血液を送るためにも無理をしてはいけない。
ここからはそんな坂が続きます。
上ったり下ったり。
下りもけっこう急な上に落ち葉が多く、路面が見にくくなっていたところで、足をクキっとやってしまいました。痛いと言うほど痛いわけではありませんでしたが、これが歩いているうちにだんだんとはっきりした痛みに変わり、すこしばかり不安。

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下り途中に山内嘉助屋敷跡っていう更地があります。
石垣が残るのみですが、広い土地が面影を語ってくれます。古には津橋集落の経済的心理的中心だったところでしょう。
そんな力強さがありました。
津橋の集落を過ぎると急な上りが始まりました。
これが大変に見通しよく、上り坂が延々と見えるので戦意喪失してしまうんですなあ^^;
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時折止まってはどうにかあがる。
追い抜いてきた人が後ろにいてもがけの下にいるようにみえる、それほどの急坂です。塩尻峠より厳しいで、これ!
上りきったところにはなんとケーキ屋さんがあります。
妻はそこのケーキを楽しみにがんばってきたらしい。
「バスの中で食べます」とか言って3つのケーキを買ってきた妻。こんなものを持って歩くなんて気が知れんわ...

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唄清水を過ぎてゴールの間近な謡坂(うとうざか)で、木曾街道御嵩宿のモデルになった場所がありました。

いや当時の風景が現存しているといっても過言ではないでしょう。
木賃宿の前でなにやら洗っている老婆。
「宿場内の絵ではないんです」というのもわかる。木賃宿などいう低級な宿は宿場内でも外れにあったりするもんです。
洗い物をしている川は今その位置には存在しないものの、この坂を下りる途中には池か沼のあとが見え、また排水やパイプがたくさん出ていて水があった形跡をみせており、かつては坂の上から水が流れていたかもしれない可能性を示している。見た目は変わっていても水の跡を探すことで、広重の頃が蘇る。最後に妄想が現実化したような気がしてうれしかったです。

今日はこの先の坂を下りたところでおしまい。 


2012年3月 6日 (火)

旧中山道跡?

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熊谷市内・八木橋デパートの際にたっている中山道の表示柱ですが、冷静に考えると旧中山道跡はおかしい。
これでは「旧中山道」のあとになってしまう。意味がわからん。
ここは中山道の跡であるから、「旧中山道」か「中山道跡」とすべきではないか。
第一球目と同じやね。 

2012年2月 7日 (火)

中山道ウォーク(23)槇ヶ根→北野神社

期待の区間!
今回はほとんどが山中で、中山道としての醍醐味が味わえる区間です。
観光施設などがない山の中にポツっと存在する宿場をオアシスのように感じる旅です。
クルマの通行も少ないと思われ、出発前からわくわくでした。

スタート地点の槇ヶ根に着いてみるとすっかり雪化粧。
八代○紀並みの厚化粧です。新しい雪を踏むと靴が半分ほどは埋もれてしまう雪に、うれしいやら悲しいやら。
東京から京都まで2年近くをかけて歩くのだから、こういうこともあるだろうと楽しむ気持ちがぼくを含め多くの人にあったようには見えました。
足下が雪で白いから、アスファルトであろうがなかろうが見た目はすっかり江戸時代です。
人工物もほとんどなく森の真ん中を切り開いただけの道をゆく。
雪はふわふわと引力のみに従ってゆっくりと降りてくる。
気温は低いんだろうけど風がないのでさして寒さは感じません。
今日は峠の連続です。
十三峠という大きな括りの中に存在するたくさんの”峠”、それを上っていると体温が上がってきて、しまいには額に汗がにじんできました。手もポカポカ。
妻など手袋をしているのに手は氷のように冷えてしまっていますが、他の人もみな同様に冷たいらしい。
自分の手だけがポカポカなんだって。

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出発してすぐに槇ヶ根の追分があります。
往時はかなり繁盛したところだと聞いていたので土地だけは広いかと思えば、意外と狭いスペース。

名古屋への下街道も細々とした道で、交通量が多かったとは想像しにくい。
いずれこの下街道も歩いてみたい。
名古屋までほぼ一日の距離でしょう。
うちらでは2日はかかるでしょうがね^^
乱橋は名所の一つ。
乱れ坂を下りた沢に架かる小さな橋だけれど、曲線とアップダウンと橋のバランスがおもしろくて、被写体としておいしい。
しかもいっしょに歩いている人たちが渡っている姿を捉えられるの上に雪という魔法までがかかっている!
そこまでわかっているのに3枚撮っただけとは...^^;

雪の中をとうとうと歩く。

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見所以外にも恵那市教育委員会が設置した○○跡っていう標識があるけれど、恵那市のやる気を感じるのみで、想像する余力がない。
というか下座切場と言われても、なんのことやらわかりません。
自分で調べろっていうことなんでしょうね。
まあ、それも楽しみのひとつということにしておこう。

土地が開けたら深萱の立場跡。
峠越えも一段落といったところでしょうか。
その手前に佐倉宗五郎の碑があります。
佐倉宗五郎は義民として有名だと思われますが、このあたりの人だったんですねぇ。
碑から北へ入ったところに芭蕉の句碑群があるらしいのですが、それは妻に任せて自分は常夜灯を見るとも「洞中安全」とある。
これは「道中安全」のことだと思われます。
日本人はそれほど文字に固執していなかったので、音だけが一致しているという例が珍しくありません。
自分の名前すら適当な字を当てる人が、明治頃にも少なくなかったし。
そしてこの常夜灯を立てたのが加納丈左衛門さん。廿四才建之とある。
これだけの常夜灯を建てるには金がいるだろうから加納さんは裕福な人だったんだろうなあと思いながら歩いていると、深萱立場の本陣家が加納家だと知る。その一族の人が建てたんでしょう。
だれかに教えられず、自分の中で帰結するとちょっとうれしい。

雪はやむこともなく降り続きます。
みなが歩いている姿は何かの訓練にしか見えません。
強弱に変化はなく、雪の硬さが変わるだけ。
霰っぽくなったり雨っぽくなったり。
手に持つ一眼レフはタオルをかけて雪よけとしていますが、そのタオルが時々凍ります。
凍ったりやわらかくなったりすることで、気温の変化を感じます。

坂をいくつもあがったり下がったり。
時にはひらけた土地を歩きますが、回りが真っ白で思ったほどの開放感は感じません。
むしろ雪の多さを強く感じてしまいました。
よっさよっさ降っている雪の中を2人くらいの旅人が時折歩いている。
広重の蒲原を彷彿とする点景です。

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いくつの峠を越したのか、どれだけの坂を上ったのか。
坂が体に染みついた頃、ふいに眼前に真っ白な集落が見えてきました。
やっと大鍬宿です。
十三峠最後の坂は東から来ると下り坂、この坂が大変な急坂で、一歩一歩踏みしめるように歩いてもつるつると滑るほどの坂です。
傍らにある「十三峠入り口」の碑までなかなか近づきがたい。
滑って転ぶことをおそれここはズームで。

  

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坂を下りきると宿場らしい雰囲気があらわれます。
「ご苦労様です。こんな天気になっちゃって大変ですねぇ」と地元の人。
ここに来て雪は一層強くなったような気がします。
最初のT字路を折れると今区は公民館になっている本陣跡があり、本来であれば空いてなかったはずなのですが、たまたま施設を
利用していた人があって中にはいることができました。が、「もうしわけないけど閉めます」と閉め出されてしまいましたw

大鍬、細久手という宿場は何もない印象を持っていましたが、実際は登録文化財に指定されている建物が複数あり意外です。
ただし木曾からやってきたわれわれの目には、それほど古い建物には見えません。
江戸時代の普通の商家っていうのかなぁ。いままでは目にしなかった形式の建物ですね。
それほど大きくない宿場に3つの登録文化財があると普通ならそれだけで特有の雰囲気を醸し出すものですが、なぜかここでは何も感じない。
雪が多いせいか?
そんな中におもだか屋という建物があり、内部を見学・休憩できるようになっています。
建物そのものは古いけれど、正面の体裁を街道から見ると、まったく現代の家。
このギャップはなんだろう。
きっと明治初期くらいでしょうね。くぐり戸と、管理しておられる方の笑顔がとてもうれしかった。
冷たい雪と対象でしたね。

軽いカーブを描いて、宿場を抜けるとかっちりとしたアスファルト道になります。
「アスファルトの道でも雪が隠してくれるから昔の雰囲気があるね」と妻が言う。
まあそういう見方もあるね。
ここから雪が増え、場所によっては30cm近く積もっています。
ただやはり雨よりはまし。ゴアテックスは雪による水の侵入を完全に阻んでくれています。

また山間に戻ります。
あの大鍬という集落は、本当に宿場だけの街なんだと実感しますね。
前後の雰囲気がほぼ変わらないんですからね。
十三峠というのは、いくつもの峠や坂の総称ですが、大鍬の宿場のそのなかに含めるべきだったのかも。
そんな感じのわずかな平地でした。

同じような雰囲気の土地ではありますが、こちらの道は拡幅されています。
犬の訓練場やいくつかの施設がありクルマが普通に通れます。
ただし今日は雪だらけでクルマ1台分の”舗装路”しかありませんが...^^;

中山道上ではゴールとすべき場所がないらしく、右へ折れて北野神社へと向かいます。
たぶん非舗装路ですが、雪舗装がなされているために泥で靴が汚れることもありません。
バスは北野神社の駐車場”らしき”場所に止まっていました。
運転手さんは帰ってくる人たちの雪を払い落とすのに忙しい。

それにしてもスタッドレスタイヤの威力というのはすごいもんだ。
20cmの雪の上を踏みしめるように動いていくんですからね。 

中山道ウォーク(21)中津川宿→槇ヶ根

中津川宿というか、前回の終わりからの出発です。
ちこり村って焼酎メーカーのアンテナショップみたいなもんだったんですね。
今回は開店直後だったんでいろんなものがありました。
今年は終わったと思っていた梨を見つけて買い込み、さらにチコリのスープも。
ちょいと辛いコンソメスープみたいです。
もちろんこれらはバスの中へおいといて出発です。
梨みたいに重いもん持って歩くのはイヤだ。

国道19号と分かれて住宅地のなかを行きますが、住宅があるのは道路に面しているだけでその背後はすべて田畑。
中央線があったり山々が見えたり伸びやかな風景です。
西へ進むにつれて家がとぎれとぎれとなり、その途中に六分地蔵がたっていました。
仏教系のものには今回あまり目を通していないので、ここも写真を撮るだけでスルーします。
津島にも似たような六角形のほこらみたいなものがあるけど、あれによく似た感じ。
こちらは石造りで露天ですがね。
引き続き似た風景の中を歩きます。
クルマが少し多いのでちょっと気分を悪くしますが、旧道は坂本で左へと分岐しクルマもぐっと減りました。

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このあたりの見所は篠原家と秋葉街道の常夜灯でしょう。
中山道よりも立派な道が篠原家を目印のようにして、南へ延びています。
家自体も本陣造りで、大変に立派です。

小さな坂にも固有の名前が付いています。
広久手坂と岡瀬坂は対になっていました。
なんかもったいないなあ(笑)
中でも大きいのが甚平坂で、広重が「大井」として画題にしたところ。
旧道よりも若干勾配を緩くした新道も脇にあるけれど、それほど大差ないような。
高校生が自転車をひいて上がっていくけれど、このくらいの坂は乗ったまま上がらなければ、男の子ではないぞ(笑)
ここから大井宿までは目と鼻の先、坂が邪魔して見えてないだけです。
関戸一里塚跡を越すと県道と合流しますが、この合流地点に大きな石塔がたっていました。
今回なんの石塔だったか確認しようとしてたのですが、何か宗教施設ができていて石塔が撤去されていました。
あの石塔は名古屋市西区盬町の伊藤萬蔵さんが立てたものだったのです。
常識的にあれほど立派なものを「廃材」として処分するとは思われず、どこかに移動したと思われるのですが、どなたかご存じありませんか?
右手に背の高い経塔を見て右手の坂を下りて行くと、大井宿が見えてきます。
もう宿場と呼んでもいいかな。
明智鉄道の低い橋桁を見れば、「鉄道省」の文字。

さらに進んで高札場跡にたっている復元高札。
高札に目がいって脇に立っている小さな「五妙坂」の文字を見落とすところでした。
この坂は短いけれど相当急で、西から来ると壁のように見えため息がでたものです。
今は東から、スタスタと下る。

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大井宿は本陣から始まります。
外観はしっかり残っていて雰囲気十分なんですが、家の中が見えてしまうのはなんとも^^;
でもあえて塀を高くしない居住者の方に感謝。
右に曲がると、歩道にはタイルがうめこんでありますなあ。
それにしても大井の人たちってしたたか。
明治になって街道が廃れ、恵那地区の中心であった宿場の人たちは率先して恵那市の形成に努力して大井の地位を守ったというその先見性(というのかな)。
今も宿場を地域活性化の材料として取り上げ、少しずつ効果を上げているようです。
ひし屋、広重美術館、それに旧伊藤家住宅。
しかもそれを拠点として、地元の人が集まってくる。
どれだけ統制がとれているのか外からわからないけれど、伊藤家住宅に詰めていた人たちの案内や態度を見ていると「待ってました」と言わんばかりです。
これは愛情の裏返しでもあるでしょう。
時来たりってことですか^^

ひし屋は見ての通りの建物で、改造後の姿をきちんと保存しています。
施設に関して一通り説明ができることも良さのひとつ。
人があるということは大したことです。
ひし屋の見学はそこそこに、明治天皇行在所も見学します。
これもかなり手が入ってるようですが、当時の面影は十分に残しており、一見の価値有り。
わずか2ヶ月前に改修なったというのだから、もうできたてのほやほや...じゃないな(苦笑)
荒削りな復元ではありますが、御座所そのものはほぼ原形のようです。
待ちかまえていたおじさんの解説がここで入りますが、くどくもなく細かい説明もないためにだれでも気軽に聞ける良さがあります。
また地元の話しもちょこちょこ聞けるのがうれしい。

さて、先を急がねば。
恵那駅付近で昼食を取って、広重美術館へ。
今回のメインのようです。みなここの版画で時間を食うらしい。ルート説明の時「時間に気をつけて」とくどく言われました(笑)
特別展を見て、2階で版画をスリスリ。
みんなやってるわ。
うちらもそれどれ1枚ずつ印刷して、ファイルに入れてお持ち帰り。
ちょっとした土産になりますが、絵はがき代わりにするのが最も効果的かつ正しい利用法のような気がしてます。
以前は1階の売店ではがきを扱ってたはずなんですが、今はやめたんかなあ。

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宿場を終え、恵那インターへ分岐交差点も過ぎて旧国道19号を進みます。
ずっと軽い上りで足がちょっと張ってる感じ。
バイパスへ出る手前で再び山中へ入ってしばらく行くと、キツーーーーイ坂があります。
十三峠入り口だそうな。
相当な勾配です。
これを終えると平らになって、槇ヶ根の一里塚です。
一里塚に木はありませんが、塚はふたつとも存在してます。ゴールは目と鼻の先なので、しばし休憩。南側は地形を生かした公園になって
います。興味深いのは、尾根が丸裸にされていることで、元の地形があらわになってました。山城を造る時に尾根と尾根の谷部分に竪堀を
掘りますが、その意義がよーくわかりますな。

槇ヶ根追分を前に通りに出たところでゴールでした。
槇ヶ根追分は名古屋への下街道を分岐する追分で、往時はとても繁盛したらしいです。
そんなのも次回の楽しみということで。 

2012年1月14日 (土)

中山道ウォーク(20)板鼻宿→横川(2日目)

二日目。
朝風呂に行くと人が倒れていました。
すぐに救急車がやってきましたが、あのおじさんはぶじだったのかしら。
朝からちょいとびびった。

温泉宿泊といえど、朝は早い。
せっかくだから10時くらいまでゆっくりしたいところですが、8時には弁当を受け取って出発します。

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中山道に戻れば、夕べは見えなかった妙義山が行く手をふさぐように見えています。 ゴツゴツとしていて、岩山ですね。造山帯がぶつかりあった衝撃で盛り上がってしまったような山景です。
異様な偉容....^^;;;;;
進めば山が右に左と移動し、被写体にはまったく困りません。
空は雲ひとつない気持ちのいい青空〜♪
古い造りの家があったり柿が干されていたり、温泉でゆっくりできたこともあり、なんだかすごく気分がいい。
しばらくすると、国道18号と合流します。 ここは妙義道との追分で、常夜灯を兼ねた道標があります。
元々の位置からは移動しているそうなのですが、常夜灯は国道と妙義道らしき細い道との交点に立っていて、位置的には大変ふさわしいところに置いたものです。 ただし現在妙義道はなくなってしまったのか、地図を見ても確認できないためにその細い道がそれであるかどうかは不明です。
歩きたくなる道ではあるのですがねー。
「あのおじさんね、いつもおじじのあとで写真撮っとるんだよ」と妻が言う。
どうもぼくが撮った後で同じ場所から同じような角度で撮ってるらしい。
つまりバクリか(笑)
あとで聞いたところでは「ここでも撮った方がいいのかなぁ」とつぶやいていたそうな。人にまねされるとはおれも偉くなったなあ(爆)
「おじじが普通の人と違うとこで写真撮っとるもんで、気になって真似しとるんだと思うよ」ってさ。
人それぞれ違った見え方がするんだから、同じところを歩いていても人の数だけ写真は存在する。でも人の真似をするのは簡単だけど難しいんだなー。
旧街道を歩くことすら人によって目的も感じ方も違う。
急ぎ足で見向きもせず歩く人もいるし、すべての見所をまめにたどる人もいます。
写真もそれと同じで、その人の目的を示すものでしょう。
また歩いた記憶としても大変に有効なものです。それらを全部ひっくるめて写真を撮ってるぼくなんかは、欲張りすぎなんでしょうね。自覚はしてます^^

18号と分かれて松井田の町の中へと入っていきます。
ここもやはりそのまま拡幅されてしまった宿場で、広い道路が印象的です。
広い道路、なだらかな坂というのがこのあたりの宿場に共通しています。
結局碓氷峠へ向かってずっと上り続けているんだということにこのあたりでやっと
気付いています。なにより足の張りがいつもと違うところに来ているのが気付くきっかけでした。妙義山の風景に惑わされてきたかな(゚ー゚;

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宿泊地の磯部温泉は安中と松井田のほぼ中間地点のためか、あっという間に松井田に着いてしまった印象です。
その松井田、道路拡幅はよほど早い時期だったのか、かなりの数の古い立派な家が残っています。
松井田町道路元票のたっている家は、なにやら由緒ありげな古い建物ですし(医院)、家の裏までずらりと蔵が並んでいるすさまじいばかりの豪邸もありました。よほど裕福な町だったという印象を受けます。
その中に築300年の家があります。
「みなとや」という屋号で、内部公開を兼ねて休憩所となっています。
この日、係の方が不在と言うことで入れないはずだったんですが、Good Troubleがあったようで、休憩に寄れました。
土間に板を張ったりしてかなり改変されてはいますが、よくよく見れば材料の種類や色合いで、元々の様子を想像するのはさして難しい作業ではありませんでした。

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ここから横川までは何もない道...でもなく、ところどころに道標が立ってます。
そんなのをこそこそ見つけたりしてるとけっこう楽しい。
妙義山が少しずつ姿を変えていくさまも楽しい。「確かに進んでますよ」って。
あたりの谷はだんだんと狭くなり、いよいよ碓氷峠だ!の気持ちが強くなってきます。
もっともこの日は横川で終わり。碓氷峠越えは来年の6月ですがね。

横川駅が中山道に面しているとは今回初めて知りました。
まだ信越線として機能していた頃、あさま53号で通りかかったはず。
まったく記憶が残っていないことを再確認しました(笑)
横川駅には大きな駐車場があり、バスはそこで待っていてくれました。
辺り一帯は大きなさら地。
いろいろに使われてはいますが、建物はなく機関区時代を彷彿とします。
そして鉄道文化村の中にある資料館がかつての横川機関区です。

荷物だけを下ろし、急いで鉄道ぶんか村に入っていったものの....
展示車両の内部には一切入れず、何しに来たのか分からない状態。
もっともキハ20だの10系普通車などどうでもいいんですがね。
マイネ40の内部が見たかっただけなのに...
機関車などの外装はまだまだきれいですが、旅客車は見るも無残。そんなに遠くない将来朽ち果てそうです。
雨ざらしではダメですな。
この日はお客が少なくて、まるで墓場のようでした。
無料だった中部天竜駅のレールパークとあまり変わりがない。
横軽文化の保存という使命があるだろうし、それ以外にも総合資料館として機能しているとの認識はちょっと間違っていたなあ。
せめて113系やキハ28系列、それに165系は欲しいところでしょう。
それ以上古い車両は現存しないだろうから展示も難しい。

あとはまたバスに揺られて6時間半、帰るだけです。
峠の釜飯をみやげにしたのは、言うまでもありますまい。 

2012年1月 1日 (日)

中山道ウォーク(20)板鼻宿→松井田宿(1日目)

関東への1泊2日は中山道ウォークは”遊び”の色が濃くなってきました。
もともと土地を知るということを最大のテーマにして参加してきているつもりなので、泊まりでの歩きは「お疲れちゃん」な意味合いではありますが。
板鼻という地名もなじみがない理由は、今ではすっかり高崎市内に組み込まれてしまったからでしょうか。
このあたりが豊橋からは一番遠いんですよね。
鉄道を使うのは早いですがすさまじく運賃がかかる。まさしく「時間を金で買う」のを具現化したようなのです。
新幹線で豊橋ー東京を往復するだけで運賃が...ねぇ^^
泊まり付きでの17000円は非常にリーズナブルと言えるでしょう。
NEXCOのサイトでは、中央道から上信越道で松井田妙義に出るのが一番近いとか。
それでも4時間強、ゆっくりペースの大型バスでは、いったい何時間かかるやら。
走ったことのない上信越道の景色は楽しみのひとつでもあります。

途中事故渋滞などもあり、スタート地点の達磨寺に着いたのは13:30でした。
スタートはなんと14時前!
距離そのものは12km程度だから、夏なら明るいうちにゴールである磯部温泉に着けますが、もう11月の半ばともなれば、5時を過ぎれ
ば真っ暗。部分的に風景が見えなくなるのは必至ですが仕方ないですな。どうせ中山道すべての風景が頭の中に記憶されるわけでもない
と開き直るしかありません。
大半の参加者は達磨寺へと向かいますが、われわれは早速中山道へと出ます。
しっかりバイパス化されている国道18号で、すぐにみつけた山岡ラーメンで遅い昼食です。
一発食べておかないと体力はともかく気持ちが荒れて余裕がなくなります。
店を出ると達磨寺を見学した人たちといっしょになりました。
これで互角だw
かねつ橋供養塔っていうものがあります。
バイパスが中山道であったことを証明してくれるもののひとつですが、なにしろ字が読めないので写真だけで過ぎます。
字が読めるようにすれば後世に残らないし、字が読めなければ意味が分からないというジレンマですかな。
「壬戌春3月 木嶋七郎左衛門」とあるから、1862年3月に建てられた物。
日本では文久2年にあたります。坂下門で老中が襲われたり、8月には生麦事件が起きたり、混沌とした世情の中建てられたんですなあ。
もっともこの地域の人にその情報が届いたのはいつのことかはわかりませんが。

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Th_img_8866じきにバイパスとも旧18号ともわかれて宿場内に入っていきます。
この分岐付近を見ても中山道が幹線道として一時的に使われていたことがわかります。
つまり、拡幅されたり道路の改変がなされたということ。
道路が変われば家も変わる。
個別の物は残されているようですが、想像したとおりで宿場の雰囲気をあまり残してはいませんでした。
本陣跡には和宮が泊まったとされる書院が保存されています。
ぽつんと残された書院を外から見ても仕方ないですねぇ。
提灯屋という屋号の建物は土蔵造り。よほど手入れがなされていたか漆喰が剥落した部分からのぞく土壁はクラックもなくいい状
態でした。二重屋根を上げてありいかにもお金持ちといった家です。
途中「彰忠碑」と大書する石碑が見えたので、近づいて写真を撮っていました。
由来はよくわからないけど、書は大島健一陸軍中将によります。
通常の人は関係がないらしく、背後から「なにかあるんですか?」との声が。
振り向くと、同じく中山道ウォークの人です。
偉い人の書だから写真に撮っていますと応えると、「そうなんですか。いつもみんなと違うものぱかり撮られていたから写真館の人か
と思っていました」と言われました(笑)
まあ、メモ代わりの写真ですね。
「ずっと写真館の人って呼んでたんですよ」って^^
そういえばうちらもビリチームの人だの、カラオケチームの人、下り番長だのとヘンなあだ名をつけて呼んでるなぁ^^;
先には榛名道の追分道標があるのですが、これは電信棒に囲まれて、甚だ撮影がしにくい。
オリジナルの場所を尊重しているのか、邪魔だから道路の端に寄せたのか。
建物の残り具合から明治以降拡幅したとすれば南側だと思われますが、真ん中にたっていた可能性も否定できず、わざわざ見えにくくし
ているような感じてしまいますな。
名物とか和宮の遺跡といい何かやりかけようとしてるのかしら。
道標ってあとから作った物はすぐわかってしまうために、古いものはけっこう重要ですけどね。
宿場外れに用水が見られます。
いわゆる宿場用水(そんな言葉はないかw)で、街道に面した家々の裏手に張り付くように流れています。
生活用水であり、防火用水でもある。
宿場の用水というのは、往時街道中央を流れていることが多かったそうですが、ここはどうなんだろう。
宿場外れで姿をみせた用水こそが、宿場の雰囲気を想像させてくれました。
既に落ちかけた夕日と冬枯れの山々を背景に、豊富な水がとうとう流れている。
これで救われた感じです

宿場を出て旧18号を利用して碓氷川を渡ります。次の信号で右へ折れて中山道に戻ると再び旧街道の雰囲気あり。
そのあたりの地名は”中宿”ですが、板鼻宿と次の安中宿までは3kmほどしかないために、ここはほとんど中間地点。
宿場中央の意ではなく、宿場と宿場の間ほどの意味でしょうか。
旧18号が碓氷川に橋を架ける以前、ここは歩行(かち)で渡っていたのか橋が架かっていたのか。
板鼻の宿場があまりに近いのでここも宿場内だったのかなと考える材料として気になります。
せっかく渡った碓氷川を再び渡ります。
河床もそれほど低くないし、至近距離で再度渡ることを思えば、橋は架かっていなかった可能性が高いかな。
ただし板鼻宿は北側にかなり山が迫ってきており、かつ鷹之巣橋のあたりでは現在こそ山の際まで道路が敷かれているものの、
当時あそこを歩くことができたかは疑問ではあります。
渡り終えたところがJR安中駅です。
ん?
安中駅の開業は明治18年。
この頃まではまだ幹線としての中山道が機能していたと思えば、鉄道の駅も新しい「宿」として捉えることができる。
現に豊橋駅の住所は「花田町西宿無番地」で、吉田宿に変わる「宿駅」として鉄道の駅を認知している。
それを思うと、先の中宿の地名は駅に由来する可能性もある。
と考えるべきかな。
閑話休題。

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さて二度目の碓氷川を過ぎるとなだらかの上り坂の途中に安中宿はあります。
宿場が勾配の途中にあったためか、安中藩の施設は北にあがった尾根にあります。
うちらのコースとしては本陣跡から尾根に上がって、碓氷郡役所、新島襄記念館、藩士長屋などを見学します。

郡役所は閉館が4時半。あと10分ほどで閉館という時間でしたが、快くみせていただけました。
きれいに整備復元されておりこの先長く使えそうです。
新島襄記念館は教会敷地内にあり、見学不可。
柵の外から眺めただけ。
安中城趾は安中小学校にあったようです。
校門前に石碑あり。
郡奉行の役宅は驚くほどに保存状態が良く驚きました。
部屋の内部も見学でき、有料とはいえ価値ある施設。
そういえば
それでも碓氷郡役所と郡奉行役宅それに侍長屋を見学茅葺きの武家屋敷は下諏訪以来久しぶりに見ました。
藩士長屋とは意外に立派な物で、2間に台所が付き、床の間まであります。
江戸に住む官僚侍の家よりもよほど立派かも知れません。
見学者曰く、「今日のハイライト」だそうで^^;

ここからはひたすら歩きます。
原市あたりで相当日が沈み、風景は見えなくなりはじめました。
途中お寺の鐘が云々ということでしたが、適当にやり過ごして道を急ぎました。
案内によって南に折れ、ホテルへと急ぎました。
あたりはすっかり真っ暗ですが、時間は5時過ぎなせいかだれもあわてず。
急坂を下りて川を渡りホテルに到着。
宿泊は磯部ガーデンホテルで、「初めてのまともな泊まり」だそうで。
部屋も広いため、夫婦での宿泊は叶わず、男女別の部屋割りでした。

この日は折しも日本シリーズ第七戦。
食事もそこそこに部屋に戻って野球観戦していました。
敗戦が決まるとそのまま眠りの世界へ.... 

2011年12月31日 (土)

中山道ウォーク(19)馬籠宿→小石塚立場

また雨の中山道です。
ここのところ雨続きで気分を害していますが、予報は小雨だというのでいい方に信じるしかない。
とはいうものの到着時既に雨。
雨は昼からじゃないのかーー(T^T)

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駐車場からトボトボと宿場内を降りていきます。さすがは観光地、いろんなものが売られています。
山菜とか五平餅、朝の10時過ぎから食事をできる店もあります。
妻は手焼きせんべいを買いました。
初めて来た30年ほど前は、食べ物屋や資料館などはあったものの、浮かれたような店はありませんでした。
むろん当時は手焼きせんべいの店などはなかった。
「ざらめでもいい?」
ざらめせんべいだけは苦手だ。ビールのつまみにならんじゃん。
妻籠に影響されて馬籠も観光地としての体裁を整えたけれど、さすがにこちらは完全なる観光地ですな。
古い家などほとんどない。
それっぽくなってはいるけれど、多くの家が平気で妻面を街道側に向けているし、出梁風の建物もよく見れば新建材だったり。
よくできた観光地ではありますが、妻籠ほど徹底されておらず、そりなりにといった感じでしょうか。
ここの魅力はも坂に展開した宿場ってことでしょうか。
坂にできた宿場って中山道筋では別に珍しくもないけどこれほど急な坂の途中っていうのはさすがに現存しないような気がします。
そういうわけで、馬籠は思いっきり素通りしました。
枡形にもある水車も悲しく映る。

宿場を離れるとすぐに旧街道の風情が感じられるのが、今の馬籠のいいところです。
急な坂を上っていく様がとってもいいのね。
西へ向かっても、坂をのぼりおりし、馬籠宿のはずれ新茶屋に着きます。
時折道幅が拡幅されているので旧態は想像できませんが、田舎っぽさが心地よい。
この日は雨で深い霧が現代を隠してくれて一層気分が盛り上がりました。
雨は弱くなったり強くなったりで、時には傘をたたむ時間もあります。

新茶屋は馬籠のはずれ。
木曽の西端、そして信濃と美濃の境。
深い霧に包まれた新茶屋の旅館は、神秘的に見えてきます。

ここから石畳の下りが始まります。
石は苔むしてつるつるとよくすべる。
二度ほどすべりってしまいましたが、幸いと転ぶようなことはなく無事医王寺まで出ました。
医王寺は知人の親戚のお寺なんですが、ここでは関係がありません。
数年前に中津川から歩いたとき、境内のしだれ桜は満開でした、中山道を覆うほどの見事な桜です。
さらに下ると谷底となり、落合橋で川を渡って落合宿に到着です。
以前は何もなかった宿場でしたが、今は古民家を使った雑貨屋様の店がでてきいるようです。
ただし営業日が少なくて、にぎやかし状態なのが少し残念です。
古い民家をうまく利用した雰囲気のいい店でしたよ。中に入ってみたかったなぁ。
宿場が終わると、左に曲がって19号バイパスを高架で越えます。突き当たりがおがらんさま。
そのおがらんさまでなにかイベントが行われていたようです。
門前で待ちかまえていたおじさんに、五平餅をいただきました。
肉といっしょに焼いていたのか、ほのかな肉の風味が普通の五平餅よりもおいしく感じさせてくれました。

その先を行って、今度は19号をくぐります。
ここからの上りがきつんだな。
息が切れる。体内で警告音が鳴っている気がする。

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青息吐息で上りきり、中津高校を過ぎれば中津川の町が眼下に見え、かつ旧中山道がまっすぐと足の下から伸びています。
分断する道路を歩道橋で越えて高札場跡から宿場内へ。
六斎市をやっているという話しですが、かなり大雨になってきて、買いものどころではなくなっています。
ちら見しただけですべて素通り。中山道資料館のみ冷やかして、そのまま西進し目的の川上屋へ。
ここまで酢屋もあったんですが、六斎市の真ん中にあり通り過ぎてしまいました。
もうそんな余裕はなかった!
そのあとははざま酒造でいつものように酒を買いました。
ここの店、3回増築しており、そのたびにうだつをあげています。
うだつの三重連が見られるんですね。
しかも近頃内部を公開していると聞いてお邪魔してみました。
ここまで街道筋に何軒の造り酒屋があったとか、いろんな話しをお聞きできました。
そういえばこの中山道ウォークで酒を買い始めたのは茂田井の武重さんでした。
塩名田から茂田井まではなかったのだろうか。
ちっいと気になるなぁ。
「次はたぶん美濃加茂で買えると思います」とのこと。
楽しみにしておきますべい。

街道歩きは、このまま宿場を抜けて古手の坂を越えます。
古手坂は上宿の尾根へと上がる坂で、この先なだらかな道をゆきます。
「この先の公民館で地区の文化祭やってるからよかったら見に来て」と通りすがりのおじさんに声をかけていただいたけれど、時間的余裕がなく、素通りしました。
中津川ICと出会ったところで今日は終わり。
「チコリ村」っていうのがゴールなんだけど、チコリ村って何?
焼酎メーカーの売店みたいでした。
何も買うことなく、バスに乗り込みました。
街道歩きそのものは変化があって楽しかったんですが、腹が減ってどうにもならぬ。
妻に昼を任せたのが間違いでした。
今後は自分でちゃんと管理しようと誓いました。
食い物に困ったことのない素人街道歩きはこれだからイヤだw 

2011年12月26日 (月)

中山道雪景色

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年末も押し迫った25日というのに中山道ウォークでした。
今回は槇ヶ根(恵那市内)から西へ12km程度。
中津川は多くの雪が降ること、恵那はさして降らないことを経験上知っていたので、昨日の雪も予想していませんでした。
中山道は山中ではあるけれども、雪の少ない地域を通っている....
予報も「15時頃から雪」だったそうで、早く歩き終えて早めに帰りましょう!」なんて話しだったのに、スタート地点は既に雪^^;
しかも靴が埋もれるほど積雪^^;
大半の人は雪や雨の備えをしてきていましたが、前述の理由により、うちらは普通の冬姿でした。

知識が邪魔をした典型的なパターン。

結果的にいえば雨よりはマシでした。
気温は低いものの風がほとんどなかったのでそれほど寒さは感じません。そのうえ中山道難所のひとつとされている十三峠をよじ登っている運動量のおかげで汗ばむほど。

帰りも延々と雪に降られて、この日初めて青空を見たのは音羽蒲郡ICを越えてからでした。
気温は低くないけれど、風の強い豊橋は寒い。
高山の人が「名古屋の方が寒い」というを身を以て知りました。

さて、中山道の同区間。
ぼくの知識のように、普段は雪はほとんど降らないらしい。
地元の人の話によれば、「こんなに降るのは珍しい。いちばんひどい時にあなた方は来たんだよ」とのこと。
だれかひどい雨男か雨女がいたってことですね。

2011年7月 8日 (金)

中山道ウォーク(10)戸田公園→上尾水上公園(2日目)

2日目は、前日の続き。
渋滞する国道17号をバスで移動して北浦和駅から始まります。
朝だというのに中山道、人が多い!

いろんな史跡がありますが、あまりに町過ぎて、どうイメージしていいものだろう。
一本杉の敵討ちの跡の石碑があるんですが、これ道路を向いています。
名古屋の伏見通りにある熱田神宮鳥居跡の石碑を思い出す。
みな道路を向いているんですよね。
なぜか。
道路を走っているクルマに見て欲しいからですね(笑)
歩行者はこんなもの気にしないという判断によるものです。
つまりこういう町は、歩行者より車を大切にする町柄なんですよね。
そういう町で道を歩くとたいていつまらない。
浦和然り、名古屋然り。
失ったものはもう戻らないことを知らなかった時代の”遺物”ともいえます。

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しばらく行くと歩道は広くなり、ケヤキ並木が現れますが、これも街道風情とは似て非なるもの。
作った人たちは旧街道の風情を現代風にアレンジしたつもりかもしれませんが、人の手の届かない高さのものになかなか
愛着が持てる物ではありません。ましてや日を遮る効果などあるわけもなく、そういう町作りなのですね。
何かみな手の届かない場所で起きている。
事件は会議室で起きてるんですね(爆)
そういうなかでちょっと目を引くのが、三菱マテリアルの社屋でした。
門が広いので、車寄せもよく見える。
完全にモダニズムなんですが、なんとなくひかれる建築でした。

さて、鳥居が現れれば武蔵一の宮・氷川神社への参道です。
これも旧中山道のひとつではあるらしいですが、「こちらの道を行くと何もない」らしいし、街道歩きたるもの宿場を迂回するわけにも行
かないので、まっすぐと宿場内へと入っていきます。
宿場内といったってなんもないですけどね(苦笑)

足早に通り過ぎる大宮宿。
甘納豆屋さんへ入ると、お茶が出ました。
みやげを買いながら15分ほど休憩。
街道沿いの菓子屋さんて、こういうサービスが多くてうれしいです。

あとは何もありません。
住宅地の真ん中をとことこと歩くだけです。
上尾宿を目前にして、河村屋という漬け物屋さんで、漬け物を買い込みました。
時節柄なすびの漬け物がうまいですね。
サンプルがうまかったので、実家へも送っておきました。

見る物もないままに、上尾宿に到着。
いやまだ宿場内には入ってないかな。
ゴールの上尾水上公園へと向きを変えました。
予定よりも1時間程度の早着でした。

想像はしていたものの、市街地の街道歩きは辛いですね。
道祖神とか馬頭観音、道の変化、建物の様子などに特徴がないと退屈で歩くしかないです。
中山道の都市化っていう面で見ると、こういうのも楽しいかな。
確かに木曾路は楽しいけど、官道としての機能を失ってから町がどう変化したかを目で見るってことも、街道歩きの楽しみではあります。
わかっていても辛いんだなw

次回は再び木曾路に戻ります。
鳥居峠を越えて宮ノ越宿まで。
二度目の鳥居峠、楽しみです!