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2012年4月11日 (水)

中山道ウォーク(23)北野神社→謡坂一里塚

さて、今回の中山道ウォークは山の中。
前回のゴールであった北野神社から始まります。
先々週降った雪は未だ溶けきらずに凍り付いており、あちこち避けて通らなければいけませんが、実は道路から浮いていて、踏むとパリッパリッと音を立てて割れます。

早速緩やかな上りが来て、三面の馬頭観音がたっているのは焼坂が馬頭観音。
憤怒の表情だそうですが、正面の顔は欠けてしまってよくわかりませんでした。
他の顔は怒ってる....と思う。
なぜ怒ってるのかなんてことはいっさい分からず。いや、毘沙門天のように恐い顔をしているんじゃないか。

Th_img_9674

焼坂を下ると池があり、池中にはジュンサイやらカキツバタが植わっているらしいです。
水は凍り付いて鏡になっており、対岸の木々を映していました。
もう少し日が照っていれば、けっこう見応えのある風景です。
太田南畝が壬戌紀行に書いた弁財天も現存しています。

このあたりの中山道は、下街道に旅人を取られていました。
幕府は何度も下街道を利用しないように呼びかけてますがあまり効果なく、ついには明治になり下街道がメインルートとなって、中山道
は廃れることになりましたが、幕府の力が弱まるに従って通行量も減ったと推測すれば、このあたりの風景も当時とさして変わりがない
ということになります。茶屋など旅人相手の産業は消え去るのみですが、風景や道路の形状というものは変わる必要もなくなるというこ
とです。
また江戸−京間の新交通システム(鉄道)が東海道経由となったことから、一層衰退に拍車がかかったと考えられます。
どうにか幕府の力で保っていた区間ということができるんじゃないかも思えます。江戸幕府がわざわざ作った道ですからねぇ。
道という物はもともと自然にできるものであって、作る物ではないということを証明しています。
尾根道をトロトロと歩く。
交通史やら合理性を考えながら、変化のない道をニンマリしながら歩く人たちでした。
他の参加者のおばちゃんたちに「おねーちゃん(妻のこと)」の写真も撮ってあげなよー」と冷やかされながら。
その上道路端には落ち葉が重なっていろんな葉っぱが積み重なっている。
妙な花が咲いているんじゃないかと目をやるから忙しくも楽しい道中です。
ただしみるほどの物はありません。集落がないのだから、人文的なものは何もない。旅人相手の馬頭観音や道祖神ばかりです。
その罵倒さんや道祖神ですが、ここは石垣に保護された祠に納まっていることが多いのです。
しょせんは石なので、わざわざ囲いを設ける必要もないと思うのですが、どういったつもりでこんなことをしているのか。
他の地域では見られないだけに、不思議な感じがします。

なだらかなアップダウンをいくつも繰り返して歩くと、細久手宿はすぐです。
工場が表れると次は民家。
民家がそのまま細久手宿です。
宿場の入り口には「日吉第二小学校跡」の文字がありましたが、記念碑自体が新しいし、命名の方法から古い小学校ではないとわかると
過疎化による廃校しかなく、静かさと相まって寂しさが漂います。
宿場ともなればこのあたりの中心であったろうに、なぜに細久手学校などと名付かなかったんだろうなぁ。
日吉小学校のホームページによれば、大正2年(1913・癸丑)に日吉小学校から細久手分教場として分離し、昭和58年(1983・癸亥)
に閉校されたとあります。

細久手は坂の宿場です。
古い家はほとんど残ってなくて40年くらい前の農村のよう。
古いホーロー看板がちょくちょく放置されたような町ではあるけれども、家々はきれいで新しい家が多いのは、瑞浪や土岐、多治見などの都市が通勤圏にあり、留まって暮らせるからでしょう。

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宿場として目を引くのは、やはり大黒屋でしょう。幕末安政年間に建てられたというのだから、築150年越え。宿泊客がいなければ見学
できるっていう話しは以前から聞いていましたが、この日見学できるとは思っていなかったので、大したもうけもんです。
諸サイトではボロボロだということばかりが書かれていますが、それよりも格式の高さに驚きます。1階には相当りっぱな書院があり、
そこは上段の間となっています。2階にも書院があるのですが、これはどういう使い方がなされていたのか。
控えの間とおぼしき隣室にも床の間が用意されており、例えば二川本陣の上段の間よりも格式で言えば高いじゃないだろうか。部屋の
構成吹き抜け等、他で見たことのない構造で大変に興味深い。
「尾張藩定本陣」というが意味合いがよくわからない。
尾張藩公が江戸へ下るならば、東海道を利用することになっているはず。大黒屋のサイトでの解説には「他の大名との相宿を嫌った」とあるが、大名同士の相宿などあり得るはずがない。たぶん尾張藩の公用役人が利用したと思うけれど、それにしても豪華すぎるつくりです。
見学可能な部分はすべて見学しました。
一番古びた部屋が”書院”で、底冷えがする感じ。
夜は何か出そうな感じ^^;
他にもきれいな部屋はたくさんあるんですが、多数ある部屋の中から泊まるならここしかない。
寒さも旅のひとつの要素ではあります。
「必ず泊まりに来ます」と言うと、「ぜひ季節のいいときにおいでください」と。
いや、細久手との初対面が冬なのだから、ぜひ冬に。

細久手の町外れを北に入ったところで、昼食。
ここから少しきつい上りを上がります。西の坂というらしいが、相当きつい。
肩で息をしても間に合わないので、息を”つく”。
腹一杯食べてはいないけれど、胃に血液を送るためにも無理をしてはいけない。
ここからはそんな坂が続きます。
上ったり下ったり。
下りもけっこう急な上に落ち葉が多く、路面が見にくくなっていたところで、足をクキっとやってしまいました。痛いと言うほど痛いわけではありませんでしたが、これが歩いているうちにだんだんとはっきりした痛みに変わり、すこしばかり不安。

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下り途中に山内嘉助屋敷跡っていう更地があります。
石垣が残るのみですが、広い土地が面影を語ってくれます。古には津橋集落の経済的心理的中心だったところでしょう。
そんな力強さがありました。
津橋の集落を過ぎると急な上りが始まりました。
これが大変に見通しよく、上り坂が延々と見えるので戦意喪失してしまうんですなあ^^;
がんばれんぞ!face07

時折止まってはどうにかあがる。
追い抜いてきた人が後ろにいてもがけの下にいるようにみえる、それほどの急坂です。塩尻峠より厳しいで、これ!
上りきったところにはなんとケーキ屋さんがあります。
妻はそこのケーキを楽しみにがんばってきたらしい。
「バスの中で食べます」とか言って3つのケーキを買ってきた妻。こんなものを持って歩くなんて気が知れんわ...

Th_img_9807

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唄清水を過ぎてゴールの間近な謡坂(うとうざか)で、木曾街道御嵩宿のモデルになった場所がありました。

いや当時の風景が現存しているといっても過言ではないでしょう。
木賃宿の前でなにやら洗っている老婆。
「宿場内の絵ではないんです」というのもわかる。木賃宿などいう低級な宿は宿場内でも外れにあったりするもんです。
洗い物をしている川は今その位置には存在しないものの、この坂を下りる途中には池か沼のあとが見え、また排水やパイプがたくさん出ていて水があった形跡をみせており、かつては坂の上から水が流れていたかもしれない可能性を示している。見た目は変わっていても水の跡を探すことで、広重の頃が蘇る。最後に妄想が現実化したような気がしてうれしかったです。

今日はこの先の坂を下りたところでおしまい。 


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