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2012年1月 1日 (日)

中山道ウォーク(20)板鼻宿→松井田宿(1日目)

関東への1泊2日は中山道ウォークは”遊び”の色が濃くなってきました。
もともと土地を知るということを最大のテーマにして参加してきているつもりなので、泊まりでの歩きは「お疲れちゃん」な意味合いではありますが。
板鼻という地名もなじみがない理由は、今ではすっかり高崎市内に組み込まれてしまったからでしょうか。
このあたりが豊橋からは一番遠いんですよね。
鉄道を使うのは早いですがすさまじく運賃がかかる。まさしく「時間を金で買う」のを具現化したようなのです。
新幹線で豊橋ー東京を往復するだけで運賃が...ねぇ^^
泊まり付きでの17000円は非常にリーズナブルと言えるでしょう。
NEXCOのサイトでは、中央道から上信越道で松井田妙義に出るのが一番近いとか。
それでも4時間強、ゆっくりペースの大型バスでは、いったい何時間かかるやら。
走ったことのない上信越道の景色は楽しみのひとつでもあります。

途中事故渋滞などもあり、スタート地点の達磨寺に着いたのは13:30でした。
スタートはなんと14時前!
距離そのものは12km程度だから、夏なら明るいうちにゴールである磯部温泉に着けますが、もう11月の半ばともなれば、5時を過ぎれ
ば真っ暗。部分的に風景が見えなくなるのは必至ですが仕方ないですな。どうせ中山道すべての風景が頭の中に記憶されるわけでもない
と開き直るしかありません。
大半の参加者は達磨寺へと向かいますが、われわれは早速中山道へと出ます。
しっかりバイパス化されている国道18号で、すぐにみつけた山岡ラーメンで遅い昼食です。
一発食べておかないと体力はともかく気持ちが荒れて余裕がなくなります。
店を出ると達磨寺を見学した人たちといっしょになりました。
これで互角だw
かねつ橋供養塔っていうものがあります。
バイパスが中山道であったことを証明してくれるもののひとつですが、なにしろ字が読めないので写真だけで過ぎます。
字が読めるようにすれば後世に残らないし、字が読めなければ意味が分からないというジレンマですかな。
「壬戌春3月 木嶋七郎左衛門」とあるから、1862年3月に建てられた物。
日本では文久2年にあたります。坂下門で老中が襲われたり、8月には生麦事件が起きたり、混沌とした世情の中建てられたんですなあ。
もっともこの地域の人にその情報が届いたのはいつのことかはわかりませんが。

Th_img_8852

Th_img_8849

Th_img_8866じきにバイパスとも旧18号ともわかれて宿場内に入っていきます。
この分岐付近を見ても中山道が幹線道として一時的に使われていたことがわかります。
つまり、拡幅されたり道路の改変がなされたということ。
道路が変われば家も変わる。
個別の物は残されているようですが、想像したとおりで宿場の雰囲気をあまり残してはいませんでした。
本陣跡には和宮が泊まったとされる書院が保存されています。
ぽつんと残された書院を外から見ても仕方ないですねぇ。
提灯屋という屋号の建物は土蔵造り。よほど手入れがなされていたか漆喰が剥落した部分からのぞく土壁はクラックもなくいい状
態でした。二重屋根を上げてありいかにもお金持ちといった家です。
途中「彰忠碑」と大書する石碑が見えたので、近づいて写真を撮っていました。
由来はよくわからないけど、書は大島健一陸軍中将によります。
通常の人は関係がないらしく、背後から「なにかあるんですか?」との声が。
振り向くと、同じく中山道ウォークの人です。
偉い人の書だから写真に撮っていますと応えると、「そうなんですか。いつもみんなと違うものぱかり撮られていたから写真館の人か
と思っていました」と言われました(笑)
まあ、メモ代わりの写真ですね。
「ずっと写真館の人って呼んでたんですよ」って^^
そういえばうちらもビリチームの人だの、カラオケチームの人、下り番長だのとヘンなあだ名をつけて呼んでるなぁ^^;
先には榛名道の追分道標があるのですが、これは電信棒に囲まれて、甚だ撮影がしにくい。
オリジナルの場所を尊重しているのか、邪魔だから道路の端に寄せたのか。
建物の残り具合から明治以降拡幅したとすれば南側だと思われますが、真ん中にたっていた可能性も否定できず、わざわざ見えにくくし
ているような感じてしまいますな。
名物とか和宮の遺跡といい何かやりかけようとしてるのかしら。
道標ってあとから作った物はすぐわかってしまうために、古いものはけっこう重要ですけどね。
宿場外れに用水が見られます。
いわゆる宿場用水(そんな言葉はないかw)で、街道に面した家々の裏手に張り付くように流れています。
生活用水であり、防火用水でもある。
宿場の用水というのは、往時街道中央を流れていることが多かったそうですが、ここはどうなんだろう。
宿場外れで姿をみせた用水こそが、宿場の雰囲気を想像させてくれました。
既に落ちかけた夕日と冬枯れの山々を背景に、豊富な水がとうとう流れている。
これで救われた感じです

宿場を出て旧18号を利用して碓氷川を渡ります。次の信号で右へ折れて中山道に戻ると再び旧街道の雰囲気あり。
そのあたりの地名は”中宿”ですが、板鼻宿と次の安中宿までは3kmほどしかないために、ここはほとんど中間地点。
宿場中央の意ではなく、宿場と宿場の間ほどの意味でしょうか。
旧18号が碓氷川に橋を架ける以前、ここは歩行(かち)で渡っていたのか橋が架かっていたのか。
板鼻の宿場があまりに近いのでここも宿場内だったのかなと考える材料として気になります。
せっかく渡った碓氷川を再び渡ります。
河床もそれほど低くないし、至近距離で再度渡ることを思えば、橋は架かっていなかった可能性が高いかな。
ただし板鼻宿は北側にかなり山が迫ってきており、かつ鷹之巣橋のあたりでは現在こそ山の際まで道路が敷かれているものの、
当時あそこを歩くことができたかは疑問ではあります。
渡り終えたところがJR安中駅です。
ん?
安中駅の開業は明治18年。
この頃まではまだ幹線としての中山道が機能していたと思えば、鉄道の駅も新しい「宿」として捉えることができる。
現に豊橋駅の住所は「花田町西宿無番地」で、吉田宿に変わる「宿駅」として鉄道の駅を認知している。
それを思うと、先の中宿の地名は駅に由来する可能性もある。
と考えるべきかな。
閑話休題。

Th_img_8936

Th_img_8943

さて二度目の碓氷川を過ぎるとなだらかの上り坂の途中に安中宿はあります。
宿場が勾配の途中にあったためか、安中藩の施設は北にあがった尾根にあります。
うちらのコースとしては本陣跡から尾根に上がって、碓氷郡役所、新島襄記念館、藩士長屋などを見学します。

郡役所は閉館が4時半。あと10分ほどで閉館という時間でしたが、快くみせていただけました。
きれいに整備復元されておりこの先長く使えそうです。
新島襄記念館は教会敷地内にあり、見学不可。
柵の外から眺めただけ。
安中城趾は安中小学校にあったようです。
校門前に石碑あり。
郡奉行の役宅は驚くほどに保存状態が良く驚きました。
部屋の内部も見学でき、有料とはいえ価値ある施設。
そういえば
それでも碓氷郡役所と郡奉行役宅それに侍長屋を見学茅葺きの武家屋敷は下諏訪以来久しぶりに見ました。
藩士長屋とは意外に立派な物で、2間に台所が付き、床の間まであります。
江戸に住む官僚侍の家よりもよほど立派かも知れません。
見学者曰く、「今日のハイライト」だそうで^^;

ここからはひたすら歩きます。
原市あたりで相当日が沈み、風景は見えなくなりはじめました。
途中お寺の鐘が云々ということでしたが、適当にやり過ごして道を急ぎました。
案内によって南に折れ、ホテルへと急ぎました。
あたりはすっかり真っ暗ですが、時間は5時過ぎなせいかだれもあわてず。
急坂を下りて川を渡りホテルに到着。
宿泊は磯部ガーデンホテルで、「初めてのまともな泊まり」だそうで。
部屋も広いため、夫婦での宿泊は叶わず、男女別の部屋割りでした。

この日は折しも日本シリーズ第七戦。
食事もそこそこに部屋に戻って野球観戦していました。
敗戦が決まるとそのまま眠りの世界へ.... 

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