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2011年5月17日 (火)

あたり前田のホーキンス

近頃よくわからんのです。
死ぬのが恐いのか、死に至る過程が恐いのかが。
つまり死に至る痛みや苦しみの方が恐怖の対象になり、イコール死への恐怖にすり替わってるんじゃないかと。
人は常に「死ぬことが恐い」っていう固定概念を持っている。
けど逆に「死ぬことなど恐くない」とムリでも思えば、なぜ死ぬことが恐いのか分からなくなる。
生きようとするのは生物の本能だとかいうけど人間は生物としての本能を超越したところを「ユートピア」などと呼んでみたりする。
それを実現したいのなら生き物としての本能は捨てなきゃ。

昔交通事故で死にかけた時に思った。
気を失うということは本人にとって既に死と変わらない。
回りが「生きている」とみているだけのことで、目覚めなければそのまま死んでしまう。
そのまま死ねば自分が死んだことすら理解しないまま死ぬ。
他人が「くじら山が死んだ」と言ってくれることで、自分は死ぬ。
なのになんで死ぬのが恐いんだろう、と思う。

死んでしまえば何もない。
むしろ死というのは、本人よりも残された者が苦しみ悲しみ嘆く。
そこに至るまで生き続ければいいんじゃないかな。
あたりまえじゃねえか、という答えこそが真実なんじゃないの。

物理学者が神や死後の世界を否定するのは当たり前のことですね。
中学の時物理の渡辺先生はこうのたまいました。
「物理には昔から神様はおらんことになっとる」と(笑)
蓋し名言であります。

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