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2011年3月

2011年3月31日 (木)

今日で退職

3年間でしたが、お世話になった会社をやめました。
社員であっても、社会保険が半分払ってもらえてたわけでもないから社員でいる意味はほとんどありませんでした。
むしろ、名古屋あたりから「仕事あるんだけど」という声があるのを思うと、弊害の方が大きかったというのは事実です。
仕事以外右も左もわからない津島からやって来たおっさんを雇ってくれたことにはホントに感謝しています。
会社の人たちは親切にしてくれたし、「三河人は排他性が高い」なんてウソだったってこと実感しました。

問題はこれから。
仕事はボチボチと見えてきてはいますが、それ以外の部分がなんもしてないのですよ。
国民年金への切り替え、健康保険の届け、所得申告etc...
自分が自分であるために選んだ道ですから、がんばらんと。

明日からは自営業者。 

トホホな代車

事故って、修理に出したカリーナ。
大した”怪我”ではないけど、板金が絡むし、部品の調達に関して金の問題が面倒だから修理に出した。
「素人が勝手に直した」では金を払ってくれないだろうからねぇ。
破損個所は右フロントタイヤの前。フェンダーが押し込まれてブラケットがつぶれ、ウインカーユニットを前に押し出し、バンパーがブラケットから外れた状態。
インナーフェンダーも少々ちぎれた。

代車にやってきたのは平成12年頃のトヨタEL51。
ターセルとかコルサ、カローラ2とかその類。
まったくのオリジナル状態なんだけど、みんなこんなクルマよく乗れるね(笑)
ちょっと突っ込めばクルマは傾く。コーナーを抜けるといった挙動はまったく皆無で、運転手がそれをいちいち教えてやらなければならない。つまり運転手がヘボで不用意にオーバースピードで突っ込めば立て直すことはできない。
カーブでアクセルを踏み込めば容赦なく体勢が崩れる。全然踏ん張るということができないんだな。
ハンドルは甚だ不安定で、細かい操作ができない。
まともなのはエンジンくらいだけども、底まで踏み込めるのは直線くらいだな。
吹け上がるのが鈍いのは古いせい?鍛え方が足りないせい?元々の性能?
ブレーキのききは甘く、こんなクルマで街中を走ることはできんな。
ホント、お年寄りとかおばさん、おねーちゃん、初心者の後ろなんて恐くて走れないよ。
エンジンはボディを引っ張る力はあるけど、なんとも頼りない。
というか車体がすごく重く感じられる。
カリーナよりは軽いはずなのに、乗ってみたら明らかに重い。
ドアは大きく重く、内部の作りはとても安っぽい。
とてもうちのカリーナより7年も後に作られたクルマとは思えない(笑)

2011年3月27日 (日)

碇シンジになる

先週は心身共にズタボロだった。
歯は悪いし、花粉症。
仕事関連で頭がいっぱいなのに、その悩みをあざ笑うかのような周囲の人。
先週は逃げ回ったな。
金曜日には地元の知人に助けを求め、土曜日は友人の送別のつもりだったけど、個人的には逃げ場所だった。
朝は遠い友人からもらったメールに泣いた。

おかげで精神的にはかなり楽になったけど、まだまだ当分は続くんだろう。
体は保っても精神面はどうなのか。
元来小心者だから、自分の性格に逆らったことをすると大変な負担が来る人なのだ。
でもそんなことは言ってられない。
がんばらんと。

がんばってる人に「がんばって」というのは無意味だという意見もあるけど、時には助けられることもある。その一言が酒よりもうれしい時もあるんだということを初めて知った。

今日は休む。
精神を支えるための体力を養う一日。

逃げちゃダメだ逃げちゃダメだ逃げちゃダメだ。

ゆうべ刈谷へ飲みに出て、帰りの電車。
豊橋に着いてコンコースに上がったらすぎうらさんがいた。
これはびっくりした!
「いまからながらに乗る...」んですと。
豊橋は狭いというより、縁が深いんだろうなぁ。

2011年3月21日 (月)

三社まつりの中止に思う

中止を決めた人たちの認識は、「神事は祈りであるが、それ以外は娯楽」ということなのだろうか。
一般的な認識というのは、五穀豊穣や生活の安定を願うものだと思っていたのだけれど、災害に際して中止するというのはそれらを否定するものですな。
祭りの本旨を思えば被災地ですらお祭りを開催させてあげたいもの。
全国のまつり人たちにはこんな行動をとってほしくない。
むしろもっと大々的に被災地の復旧を神に祈って欲しい。

祭りの人たちの判断は無理からぬところかもしれない。
後にあるかもしれない、「こんな時にまつりなんぞ...」という意味不明の力の波を思えば、小さな地域が対応するのはたいへんだろう。
しかしそういう声が上がる心配があると予想されるからとへたれてもいいような種類のものではあるまい。
まつりはやろうよ!
それは復活へののろしでもあるんだから!
普段よりも規模を大きくして声高に叫ぼうよ。
それが祭りなんだから。三社まつりの中止に思う

2011年3月20日 (日)

中山道ウォーク(4)芦田宿→和田宿

予報通り暖かな一日でした。
先の芦田宿本陣前からスタート、日曜休みの醸造業・酢屋茂を過ぎ、金丸土屋旅館を通過。じきに笠取峠に入っていきます。
松並木は天然記念物指定の価値があるのか、大した木はなく、枯れ木や倒木状態のも見受けられました。こりゃ御油松並木の方がよほどマシ。石畳風に舗装した道路でかろうじて雰囲気を維持しています。

スタート時点から峠まで休むことなく上り。
いつものようにどん尻出発でありました。
がたいの大きな青年(老けてみえるが)は、資料を見ながらひとつひとつ見所をチェックしているために、うちらと同じようなペースになってます。
もうひとりおばあさんがひとりで歩いてました。
この人たちが序盤の”仲間”
おばあさんは長い坂に、自分で腰を支えながら必死で上り、時折足を止めて休憩しとります。うちらはなにしろ最年少ですから、その気になれば速い。あっという間におばあさんを追い越したものの、そのペースの遅さと様子に彼女のことが心配になりました。
ビリになって焦るんじゃないかとか、倒れおちてしまうんじゃないかとか。
ゆっくり歩いておばあさんのペースをつかんだ方がいいなと話しているうち、くだんの青年がおばあさんに追いついた。
これで一安心、まあ彼に任せておればいいかなと再び足を早めて笠取峠を越えました。
ところが下りになったとたん、このあばあさんも青年も追いついてくる。
長久保宿の前でとうとうふたりとも追い抜いていった!
なんと!
おばあさんもそこそこのペースで歩いているし、青年はがたいがしっかりしている分歩みも早い。
妻曰く、「ありゃ下り番長だわ」と(笑)
なんかとってもいい命名で、この後ずっと彼を下り番長と呼び続けました。
けれど最後まで抜き返すことはできなかった(汗)

下り番長がうちらと競っていたのは長久保手前の山中。
明治に新しい道が造られて、うち捨てられた旧中山道です。
そこを一部の人は転びながらも下ってゆく。そこに道祖神があったりすると、これぞ旧街道歩きの醍醐味!とつい叫んでしまいます。
やはり東海道よりも中山道の方が楽しい。
もうだれがなんと言おうとこれは変えられない。

長久保宿に近づくと、松尾神社があります。
由来があるようですが、ここでは日露戦争忠魂碑を見る。
なにげなく「希典書」とある。
こりゃあの乃木希典の筆によるものだ!
二人の死が記されていましたが、ぼく以外はだれも気にも止めない。
日露忠魂であるにもかかわらず、また乃木さんの筆によるにも関わらず。
世の中こんなもんですかねえ。
日露の犠牲者はこんな扱いなんですかねえ。
寂しい国ですねぇ。

潮吹きくじらデザインの蛇口から水があふれていて、顔を洗う。
冷たい水が気持ちよく一気にさっぱりした。
橋を渡って神社を出たところに鳥居と神社名が掘られた石柱が立っていて、「奉納石合平右衛門」とある。石合の名前に聞き覚えがあったので写真を撮り、前に回ったら、今度は「伯爵祐亨云々」とある。伯爵なんてそうそう大勢はいないから祐亨といえば日清戦争時の連合艦隊司令長官・伊東祐亨しかいない。
黄海海戦で活躍したあの人です。
乃木といい伊東といい、どういういわれで筆を起こしたのか。
興味の対象です。
ちなみに石合は、長久保宿の本陣職を勤めた家で、記憶というのはここに真田信繁の娘が嫁いでいたから。何かの小説で読んだんでしょうな。記憶のかけらがよみがえってたというわけでした。

長久保宿に入り、一福処濱屋で休憩。
われわれのハイキングに賛同して、特別に開けてくださったそうです。
感謝。
明治のはじめに旅籠として建てられたけれど、衰退する中山道を見て営業をやめたとか。
中山道や東海道等旧街道は鉄道が開通するまでは幹線道路として機能したはずだから、明治の初期というのがちと眉唾ですけど、建物自体は大旅籠で素晴らしい。
ここからずっと竪町として坂を下っていきますが、当時の面影がこれでもかというほど残されていてうれしくなってしまいますな。
横町との交点付近は、いろんな時代の旅館建築がそろっていてとても楽しいです。
「わくわくするなぁ」と言ったのは、マリだけではないよw

長久保を出ると、国道と付かず離れず併走するだけで何もない。
山と山に挟まれた狭い地域をクルマと人が別の道を進んでいるだけの話。
いつの間にか空に晴れ間はなくなり、風が吹き始めてました。
芹沢一里塚跡付近でとうとうパラパラと来た。
急ぎ足で和田を目指し、本格的な雨になったところで集合地点の道の駅に到着。
今日は1時間も早く着けました。

バスに乗ってみると、あの下り番長は後ろの席に座っていた。
びっくりした(苦笑)

次回は4/10、2週空きます。
しかも当初の和田峠越えではなく、下諏訪へ飛ぶらしい。
和田峠の雪がまだ残っているそうだから、順番を入れ替えたらしい。
というわけど次回は下諏訪宿から塩尻宿だげな。

2011年3月19日 (土)

道具 1

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会社を通してトーチバーナーを買った。
アスファルトトーチ職人にとっては命の次に必要なものかもしれない。
料理人にとっての包丁みたいなもの。
いったいいくらなんだろう。

ケースに今日の日付を入れた。

宇部興産は自社で扱っているトーチバーナーの人気に乗ったのか、部分的に改造されている。TB50からAMT50へ。
調子こいとるとコケるぞ(笑)

2011年3月17日 (木)

仕事だから。

原発の作業員も官房長官も、みんな仕事でしょう。
元々それを覚悟でその職に就いてるわけでしょう。
感謝するとかそういう次元のこととはちょっと違う気がする。
他の職種であれば、「自分の仕事は全うしてください」と言われるだけでしょう。
たぶん彼らもその責任感で仕事をしている。
でも「英雄」と讃えたい。
逆に消防だの自衛隊だといった専門職以外の人たちこそいい面の皮でしょう。

原発問題。
収束したら、責任者は死を以て国民にわびるべきですな。
原発からいち早く逃げた関係者も然り。

2011年3月15日 (火)

生きる

歯から来る頭痛が肩の凝りを誘発している。
ただしバイブレーターをあてればかなりの部分解消していく。
歯痛すら止まる。
それで気付くのはのこされた部分、腕、首、大概の部分が張り詰めて凝ったようになっていること。
なんでだろう、疲れているのか。

ボーズは一日遊んだ後にバイトして10時前に帰って来る。
そのままケロッと寝てしまっているようだが、翌日は普通に起きてきてやはりケロっとしている。
あの体力の源は若さか。
もしくはS2機関搭載型なのか。
突っ込まれる前に言っておくが、ボーズはカエルではない。

47とはいえ、通常の人よりもかなり体力はある方だと思う。
それでも体がいうことをきいてくれない感じ。
朝はちゃんと起きられる。
目覚ましなしでも5時半には目が覚める(断じて年のせいではない)
2時に寝てもその時間には起きるんだなぁ。
とにかく6時過ぎまで寝ていることができない。
日曜も同じように起きてしまう。
土日休みを利用して一泊旅行にでかける人は、月曜日は仕事を休んで家でゆっくり過ごすなんていう人がいる。
なんじゃそら、そんな無駄な時間があるんかと思ったりする。
遊んだら仕事しろ。

昨日、二川でまつりについて先生のお話を聞く機会があった。
75分ほどの講義であったが、さすがに途中眠たくなった。
なにしろ3時間しか寝ていないのだから。
それでもうつらうつらしただけで、話は覚えてる。
近頃こういう集中力だけが妙についてきたんだよね。
睡眠欲を精神力で押さえ込んでしまうってことができているような。
これは恐いことなのかもしれない...となんとなく感じている。
これからの人生は、人の倍生きなければいけない。

2011年3月13日 (日)

地震田原

金曜、地震に気付きませんでした。
ちょうど屋上で仕事してた頃にあたる。
休憩していたら、後から応援に来た人が「大きな地震があったらしい」と顔色かえてやってきた。
でも現場にいた作業員はみな「気付かなかった」。
3時過ぎて防災無線は時折サイレンを鳴らし大津波情報を伝え始めた。
当該地域は海辺である、海辺にいる人は至急浜から離れて高台に避難するようにと。
でもだれもあわてない。
学校なのにだれも避難して来ない。
帰り際先生にあいさつに行くと、「屋上から津波の様子は見えますか?」と聞かれるが、海辺といっても相当離れているし、海との間は比較的高いので見えやしない。
「地震すら気付かなかったんですよ」と言うと「あら、鈍感ですねぇ」と言われた。若いきれいな先生♪

ラジオは地震一色。
名古屋は震度4と聞いて実家に電話してみるがでない。何度電話してもでない。
おふくろは最近クルマに乗らないので、遠出するはずはない...と心配したが、買いものにでかけていたとか。人騒がせなヤツだ。
「そっちの方が地震は大きかっただろう?」
いや、気付かんかったのさ...

東北には知人がいる。
ネット上オンリーの付き合いだけれども、もう10年以上になる。
遠い知人。
mixiには早速の無事宣言。
学校に避難しているという続報。
一安心。

もうひとりは置賜・米沢。
震度は5強。震度5というのは阪神大震災の時に経験あるから、それほどの心配はないと判断したのも震度7なんていうのを見てしまって感覚がおかしくなってしまったのだろう。
メールしてみたが、まったく返事がない。
キャリアメールは届かないだろうという情報で、PCからメールを送るが、やはり返信はない。
テレビは山形全域で停電と言ってるから、受信できないというのも安易に想像できるし、電話もメールも届きにくくなっているといから、あきらめて待つことにした。テレビを見ている限り山形での死者・けが人はないみたいだったから。
そしたら昨日電話が掛かってきた!
やっぱりメールは受信できなかったらしい。
たくさんのメールが一度届いたこと、食べ物の購入や生活物資の購入に制限がかかっていることなどを聞いた。
声は元気だったし、久しぶりに聞いた置賜弁も心地よかったね。
この騒ぎが収まったら、行ってみるかな。
被災地を応援する意味でも。

今世界中が応援してくれてるね。
辛い状況でも、そんな気持ちを受け止めて耐えて欲しいと思う。
うちらの出番はそのあとだな。

2011年3月11日 (金)

中山道ウォーク(3)塩名田宿→芦田宿(後)

望月宿を出るとまた上り。
なんだか登ってばかりいる、と妻にぼやく。
いくつかのアップダウンを繰り返して今回一番の見所らしい茂田井の間の宿に着く。
時間はすでに3時前。
傍らのベンチに座っておにぎりを食う。
沿道、食べ物屋がなかったわけではないが、気付いた時にはすでに”旧街道らしく”食べ物屋はなくなってたというだけ。
東海道と違い中山道はコンビニすらないところが多く食料確保に苦労するのは経験済みで、今回も保険として朝おにぎりを買ってあったというわけ。

あっという間におにぎり5個と500mlのペットボトルのお茶1本を飲み干した。
「年を取ると水分が必要なことに体が気付かない」と誰かが言ったがまさしくその通り。すでに雲が広がり冷たい風が吹く中であっという間になくなったお茶。妻の分まで少しいただく。

茂田井にはふたつの酒蔵がある。
東の武重本家はたそがれ清兵衛のロケ地となったらしい。
西の大沢酒造は江戸中期から続く老舗。
これもすごい建物だけど、東に比べると生活感があるどことなく愛らしい建物でした。試飲もやっているし、家に伝わる資料を展示しています。
ウォーキングの参加者は甘酒を買っていたようです。
ぼくは4合びんを2本リュックに詰めて歩き続けます。
茂田井までアップダウンの終わりに石割坂がある。
これがキツイ!
荷物は増えたし、腹はいっぱいだし、苦しい...
それでも前を歩く人たちは元気いっぱいしゃべりながら歩いてるもんね。
負けじとばかりムリをして追い抜くw
甘酒を買ったおじさんに「武重では酒買えましたか?」と聞かれました^^

茂田井を抜けて高原のようなところを歩く。
もうすっかりビリグループの一員です。
途中更地がありました。
以前はどんな地形だったのか。
その真ん中に石塔が建っている。
遠目には何が書いてあるかわからない。
ビリグループの先頭を歩いていた自分だけど、じっとながめる姿にビリグループが追いついた。
「なにを見てるの?」
「あれ、なんて書いてあるか気になるんですよ」
「三はわかるけどなぁ」
「下に無縁仏って書いてありますよ」
「あんたすごいねー、あれ見えるん!?」
などと口々に話している。
「若い衆、元気だで見ておいでんw」甘酒のおじさんが言う。
若い衆なんてどこに.....おれか?!
気付くのに10秒ほどかかったわ。
若い衆なんて言われたのは何十年ぶりだ?
まぁ確かにあの顔ぶれの中では圧倒的に若年ではあるが、48歳のおっさんに「若い衆」はないやろ、おじさん(笑)
ていうか、おじいさんかやーヾ(@⌒▽⌒@)ノ

時期に芦田宿に到着。
立科町の中心部が芦田の宿場みたいで、役場もあります。
ここも通過してきた宿場と同じように古い雰囲気が残る町。
中町とおぼしき地区には本陣も残ってるらしい。
次回はここから始まるはずなので、あまり見て回らず、素直にバスが待つ権現の湯
へと向かいました。
温泉など入る時間もなく、トイレを借りてアイスとお茶を買い込んでバスに戻ったら出発10分前。
またブービーだ^_^;

次回は芦田衆から和田宿の約10kmです。
ここから下諏訪までは峠越え。
楽しみでしょうがない。
和田峠がおれを待っているっ!

2011年3月10日 (木)

さよなら二郎さん

じろうさんが死んじゃったよ。
この世とのリンクがドンドン減ってゆく。
もうどうとでもなれっていう気すらしてくる。

うちのオヤジが若い頃、二郎さんに似てるとあちこちで言われたもんだ。
息子の自分ですら似てると思ったくらい。
二郎さんはどんどん柔和な面影になっていったから、おやじとは別人と判断できた(笑)
そのオヤジもそう長くないはず。
今のうちに恩返しとか親孝行しとかないと後悔しそうな気がする。
おやじと似ている二郎さんが、こんな日に亡くなるなんて、何かを示唆しているのかもしれない。

さようなら、二郎さん。
いずれぼくらがそっちに行ったら、また欽ちゃんとやってください。
ありがとう。

独立宣言書

自分が中心に任されている現場。
上に振り回されすぎて疲れた。
この会社では自分の力を発揮できないことが確信できた。
新しい町に来てばかりの自分を使ってくれた恩は未だ感じているし、これからもダラダラ振り回され続けることも楽だけど、回りの環境はそれを許してくれないだろうし、社会から教えてもらったことを社会に反映しないことは、ある意味反社会的行為である気がする。

先もそれほど長いわけじゃない。そろそろ見切らなければいかん。せめて親と並ばなければ、あとの世代の責任すら果たせない。

2011年3月 8日 (火)

茂田井の酒

中山道の間の宿、茂田井にはふたつの酒蔵がある。
小さな間の宿に二つの酒蔵が存在してきたというのは不思議ではあるが、江戸から明治にかけて近隣の宿場で使われたものかと推察する。

茂田井は坂の町。道の両側には用水が流れており、酒蔵の白い壁とも相まってすがすがしい印象を受けます。その酒蔵の白い壁が町の雰囲気を決定づけているといっても過言ではないくらい。あいにくと訪れた日は曇り空で、壁は白く映えてくれなかったものの、グレーに染まった壁からは歴史を感じさせる重厚さを感じました。

大沢酒造は資料館を併設したり内部を公開しながら試飲も頼めるおいしい酒蔵。
後で聞いたところによると、甘酒がうまいとのこと。
まぁ後の祭りでしたが(汗)
一方は明治元年創業の武重本家酒造

同じ宿場でふたつの酒を比べられる楽しみ。
4合びん、純米酒、しぼりたての3つのキーワードでそれぞれ買ってきました。
8合の酒をしょって3kmほどを歩きました。
そういえば大井宿から中津川宿まで歩いたとき、中津川で地酒を2升買ったっけなぁ。
ありゃあ重かった^^;

大沢酒造は本吉野のいう銘柄。
がしっとした固まり感の強い酒で、味が一点に集中している。
華やかさはないかちっとした酒かな。

武重もしぼりたて。
こっちは大沢酒造の酒とまったく対照的で、ばあ〜っと華やか。
派手な味ですなぁ。
甘くてトロッとしてて、コクがあってうまい。
一ノ蔵のひめぜんまで行くとジュースになってしまうけど、この酒はそういう方向へまったく踏み出すことなく、酒として存在する。
完全に酒。
「ワインみた〜い」なんて陳腐な形容を許さないのです。
とにかくね、この香りがたまらんのですよ。
うちの近所の酒屋で蓬莱泉の純米・可(べし)の量り売りが買えます。
こいつが相当うまいんだけれど、これの上をゆく酒です。
値段もびんに入って量り売りとほぼ同じ。
こんなに安くこんなにうまい酒が作れるのかと思ってしまいました。
自分は舌が肥えていないので、化学調味料を使ったラーメンと、そうでないラーメンとの違いがわからない。でも化学調味料を使おうが使うまいがうまいラーメンが食えればいい。
この酒にもそれは言える。
化学調味料的なもの、もしくは技術を使ったとしてこの酒ができるなら何も問題にはしない。
それでいいのだ。

こういう好対照の酒が買える茂田井の人は幸せだね。
派手な酒、地味で堅実な酒。
どっちもうまい!
イイネ!

2011年3月 6日 (日)

中山道ウォーキング(3)塩名田宿→芦田宿(前)

前回とはうってかわって、突然信濃路に舞台を移しました。
戦略的・政治的理由(笑)で、ぶっ飛ぶわけですが、まんまとそれにのせられてしまっているお客。
まあ良しとしましょう^^

さすが中山道、起伏のある道は魅力です。
山中をゆく以上アップダウンは避けられないけど、坂やそれに順応した町並みも中山道の個性としてあげられるでしょう。
久しぶりに旧街道を歩いたって気がします。
塩名田、望月、八幡、芦田、付け加えて間の宿・茂田井。
洗馬、本山、贄川といった宿場と雰囲気がよく似てる。
幅の広い旧街道が拡幅されることもなく利用された結果、独特の町並みを作り上げた。
ただしこちらは相当古い建物が残されていて、カメラマンにはたまらない。
たまらないっていうのは長短あって、「写真を撮りたくて”たまらない”」のと、「いちいち立ち止まってファインダーをのぞいていたのでは時間的に”たまらない”」
おかげで、毎度ブービーです。
今回、撮る物とスナップの差別化をはかり、歩く時間を稼ぐことにしました。
すなわち、どうしても撮る!というものは立ち止まって撮り、そうでないものはファインダーをのぞかず、適当にレンズを向けてシャッターを押す。
もうこれくらいでないと、ハイペースを保てない。

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塩名田宿・本陣前からスタート。旧道を進んで千曲川につきあたったところにある老舗川魚料理店、竹廻家。
はやの天ぷらによる天丼を食べられるそうな。
食事時でもあり、中山道ウォークの同志が入るのではないかと思っていたら、だれひとりとして入らない。どころか見向きもしない。「しめた!」とばかり店内に入るも、予約があり30分ほどかかるとのこと。その余裕はないのであきらめた。
いつ行ける事やら。実はそのすぐ近くにものむらという川魚料理店があるけれど、人気(ひとけ)はないし入れる雰囲気ではない。
残念である。
千曲川を渡って早速の坂道ではあるけれど、虫籠窓があるような旧家があったりして目を楽しませてくれる。坂道はしんどいが多少気は安らぐ。

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じきに八幡宿に着く。やはり幅の広い旧道に人家が密集し、出し梁の家もある。
その都度写真をバシバシ撮っているので、後続の人たちがドンドン追い抜いていく。早く先に進みたい気持ちと、写真を撮ったり雰囲気をかみしめながら歩きたい気持ちが交錯する。そういう中で前述の”ノーファインダー”作戦を思いつく。

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鹿曲川を渡って、望月宿に入る。ここもいくつかの古い建物があって、個性を主張する。どうにも雰囲気を作れないのは、大変に見通しのよいまっすぐに太い道であること。当然江戸時代は踏み固められた土の道であり常にほこりっぽかったと思われるが、舗装してしまうと、ただの道に見えてしまう。道路の圧迫感に建物がかなわないといった表現方法が適当か。かなり町並みはがんばっているのに、どうもダメだった。
ここでは民俗資料館を見学する。
えらく立派な建物が街道からかなり引っ込んだ位置に建てられている。
街道の雰囲気を守る努力だろう。
おひなさま展が最終日ではあったが、のんびり見学する暇もなくロビーのお茶をいただいて早々に出立する。
なんかとってもせわしないなあ。

2011年3月 1日 (火)

クルマ壊れた

社用車の話です。
雨が降って早く帰れる!ルンルン気分でクルマを走らせていたら、エンジンから異音がする。
以前から軽〜くイヤな音はしてたんたけど、大きくもなく、がらがら言う程度だったので、ほっといた。おれのクルマじゃねーし。毎日遠い現場で調べてる余裕なんてねーし。
その音が急に大きくなった。
走るにつれて大きくなっていく。
その音はあら懐かしや、メタルを打つ音でねぇの。
コンロッドあたりに傷が入ったりした時に、エンジン内部のどこかにあたる現象でガラガラキンキン言う。
アクセルオフで消えていた音が、次第に消えなくなり、三河湾大橋を渡りきったところでエンジンが止まった。
焼き付いたか?!
5分ほど放置の後エンジンは再起動したけど、音が大きすぎて走ることは不可能だし、スピードも出ない。
17年目の軽自動車だし、もう廃車かなあ。

ちなみに自分のクルマは調子いいっすよ。
18年目とは思えない。

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