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2009年11月17日 (火)

二ほんのかきのき

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実家に帰ったときに本を整理してました。
まだまだ手に負えないほどの本がごっそりあるのですが、そんな中から一冊の絵本を見つけました。
それがにほんのかきのき。(熊谷元一著/福音館書店)
1968年出版の本だから、弟のために買ったか自分のために買ってくれたのか定かでなかったけれど、「学校の推薦図書だった」という母の言葉と、一通りに読んだあとに「自分の物だ」と確信しました。
だって内容を覚えていたんだもの^^;
もう40余年前の記憶、よく残っているもんだ。

表紙を開く。
3本の木が書かれている。
1本は甘柿、1本は背の高い渋柿、もう1本は桃の木。
どの木も厳しい冬を耐えている。
子供たちが歌をうたいながら幹に傷をつけおかゆをすり込んでゆく。
どこの風習なんだろうと大変に気になる。

春になり、明るい色遣いになり、読者も気分が明るくなってくる。
桃の木に遅れ柿にも実がなる。
よその子が来て渋柿をはき出している様子も少しコミカル。

柿の木を通してムラの生活を紹介しているかのよう。
子供たちは自然の中で遊んで大きくなる。
昭和43年頃にはまだこうした生活をしていたのかなあ。
懐かしいような懐かしくないような。
自分の目で見たような見ないような。
この本を読んだ頃、「渋柿の木は甘柿の木より高い」「柿の木には一つだけ実を残しておく」ってことをなぜか強く記憶されました。
半信半疑で高校生くらいまで信じていたんじゃないだろうか。

\(^^\)..................(/^^)/

今の自分が求めているものは、だれが作り上げたものだろうと考えた。
元々頭の中にずっとあったことだけど、妻という媒体によってそれらは目覚めたように思う。だれかがパンドラの箱を開けるのを待つかのようにひっそりと胸の中に。
DNAの中にプログラミングされたみたいに。
妻と出会ったとき、ギャオスが目覚めれば自動的に起動するようプログラミングされたガメラのようにそれらは自分の中で目覚めた。

でもこうした本が自分の中で相当な影響力は持っていたと思う。
「日本人だからそうした情緒を持つのは当然」などとは考えない。
日本人だからという科学的根拠はどこにあるか。
今の日本人のどこに”日本人”がいるのか。
日本人は育てられるものなんだろうなあと、この本を見てうっすら感じた。
自分の脳でありながら自分では制御できなかった時代、こうした優しさを持った日本が入ってきたことで、それに対してあこがれを持ち始めていたと考えるのは、突飛、あるいは考え方から外れるか。

求めよ、さらば与えられん。
ぼくが欲するのは神ではないけれど、それに準じたものかもしれない。
得る物は決して少なくないが、それらをどう咀嚼するかが自分ひとりの課題。
咀嚼しても捨てる物などなにもない。
人糞ですら捨てる余裕はない。

隣に引っ越してきた家族は、うちと似た生活形態をとっている。
夏には南北の開口部を開け放ち、外の物を取り入れて健全でいようとしてる。
玄関の花はコンクリートを切り裂くかのよう。
一週間ほど前、ベランダに柿が干された。
いくら多米峠が近いからって、路面電車が通ってるような都市部の近代的マンションで干し柿だなんて^^。
なんか味方が住んでいるような心持ちがする。
渋柿なんかな。
気になるなぁ。
ひとつふたつちょうだい^^

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