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2006年7月23日 (日)

功名が辻 (29) 家康恐るべし

今日のサブタイトルはダメだな。
だれが「家康恐るべし」と思ったのか。
小牧・長久手の戦い以前から、秀吉は家康を恐るべき存在として認知している。こと天正11年に至って「家康恐るべし」とは、サブタイを付けた人の認識不足を笑うしかない。

さて、見所は「尻啖え孫一」ならぬ、「尻啖え秀吉」ですよw
二重堀から日本三大音声と言われたその大声で家康を挑発した、その秀吉の勇姿。
勇姿といっても、見ている方は見て笑うしかないその姿よ。
Ψ( ̄∇ ̄)Ψワッハッハ〜♪
それでいて天下へ平定してしまう日本史上で最もスットンキョウな英雄ぶり。物の本によれば鉄砲の弾が秀吉の近くを飛んだという。(現地をみれば作り話くさいが)このエピソードは家康を挑発して隙を作ろうとする他にも、見方の士気を鼓舞しすることにもあった。

この作品でもそうだが、秀吉に関してずいぶんと誤解がある。
例えば池田・森による三河中入りの話も、秀吉に起因すると思われがちだが、許さなければならない事情というものがあるので、それを知らずして「秀吉が負けた」とするのは正しくない。

この時点において、秀吉は天下人にはなっていない。
長宗我部、雑賀衆、毛利、北條、九州、東北の諸氏。
秀吉は「最も有力な戦国武将」でしかない。他の大名との違いは朝廷を握っていることくらいである。つまり秀吉は天下平定の途上で、周囲に仮想的を 抱え込んでいる状態なのだ。本来なら小牧・長久手などに長陣していられないほど多忙な人である。一方の家康は東の北條とは親類だし、北の上杉とは活発な交 戦状態にない。つまり安定した政権といえる。安定した政権であるからこそ秀吉と戦えたのであった。
秀吉の天下取りで一番辛かったのがおそらくこの時期だったと思う。なにしろ伊勢で盲動する「うつけ」がいるし、目の前の家康は動かない。おまけ に味方となるべき家中も本来織田の旗本であって、つい2〜3年前まで同輩・仲間であった。それらを自在に自分の手足として使える時期ではなかった。
三河中入りなども、本来なら絶対許可しなかっただろう。
池田・森という戦場慣れした猛者の要求を押さえきれなかった秀吉の抵抗は、秀次を大将に戴く事、大敗しないよう2万の大軍を付ける事だったが、これが大失敗。
池田・森武蔵守は羽柴軍団の中で伸そうとしている。自然戦場ではいきり立っている。その勢いを買うべきだった。
中入りは敵に気付かれても追いつけないほど迅速な行動で岡崎を突かなければならない。そのためにはせめて5000か、2500程度の兵数でもいい くらい。敵が追撃しようと油断が生まれたところをさらに背後からたたけばよい。中入りの兵などいうものは一種捨て駒でもあるのだから、2万もいらんのだ。
秀吉の油断があったとすれば、柏井村ほか、戦場と予想されるべき地域の百姓を手なずけておかなかったことか。中入り軍の動きは柏井村の百姓によって家康方に通報されたと物の本にある。

一方、家康の油断はうつけの身柄を確保しなかったことに尽きるだろう。織田信雄はお人好しである。(だから命を長らえることができたとも言える)伊勢戦線に放置しておけば秀吉と接触するのは想像するに難しくない。
秀吉は桑名・矢田河原で土下座して信雄に陳謝する。
土下座ひとつで秀吉は家康を倒した。

小牧・長久手の戦いは、結果的に秀吉の勝利であることは疑いない。これを引き分けだとか、家康の局地的勝利などというのは、後世の権力者の押しつ けか、戦争の価値を知らないものの戯言だろう。局地戦はひとつではない。最も大きな局地戦で勝利したからとて「戦争に勝った」とは言えない。最終的にどら らが利益を得たかを考えれば、勝者ははっきりするはずである。
戦争は外交の一手段。
外交で負けた家康は間違いなく敗者であった。

それにしても徳川慣れしている西田敏行の家康は痛快だ。こんなに心地いい家康はそうそう見られないね。
信雄が秀吉と講和した時の悔しがり方、なんかうきうきと楽しくなっちゃうんだなー。さすが某映画で「徳川膳武」を演じただけある(爆)

徳川某臣の3人。
すなわち、石川数正、酒井忠次、本多重次の3人であるが、これも3人3様。
この3人だけを近づけているのは何か意味があるのかしら。
他にも本多忠勝なんぞ、いつも側近にいるような印象だけども。
てなことを思うのには、3人がそれぞれ曰くのある人生を歩むからである。
数正は秀吉方に出奔するし、酒井忠次は嫡男・信康に関して何ら弁明しなかった男だし。そのくせ幕末は西軍に対して徹底抗戦したというおもしろい藩 でもある。そういう理由もあって、遠ざけられていたという話も様々な本で目にするが、いかがなものだろうね、親・家康の立場としては。

ところで、酒井家は徳川家中に2家ある。
通常は「酒井」というだけではわかりにくいので、酒井忠次の系統は彼の通称(官名じゃないばすだけども...)左衛門尉家と読んで、区別する。そ の方が物語上もわかりやすいので、本多重次を「さくざ(通称・作左衛門の略)」ならば、忠次も「さえもん」と呼んでもらえんだろうか。生きてる人に「忠 次」と諱で呼ぶのもおかしいしね。

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コメント

徳川ぜんぶさん、家康もサスガの演技で演じてくれましたね!今後もどのような秀吉とのかけあいがあるのか楽しみ!!

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