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2006年5月 2日 (火)

親鸞

近頃死ぬことがさしてコワイことだとは思わなくなってきた。
死そのものよりも、いたるまでの苦しみ自体がコワイだけなんじゃないか。実は裸の人間てみなそういうものなんじゃないか。
人たるもの、いつかは必ず死ぬ。
徳川家康の息子として生まれ、好色一代男を読んだとしても、彼が明治維新を見ることは絶対にあり得ない。
死は勝者にも敗者にもまんべんなく訪れる、至って公平なものである。

それを恐れるのは無意味である。

人生には喜怒哀楽がある。
なんのために喜怒哀楽があるのか。
人によって量の配分は違うが、苦・哀を克服して喜・楽を得なければならない理由はなにか。死んでしまえば、喜・楽が得られない代わりに、苦・哀からは解放される。
肉体的な死の代わりに、出家という生きながらにして死ぬ方法を人間は編み出したにも関わらず、現代という生ものはその方法すら限りなく生を投入し、現生に近づけようとしている。
なぜそれほどまでに生に執着するのだろう。
生き続けようとするタマシイを自ら絶つというのもいかがなものかと思うが、そうしたい気持ちも理解できないではない。

近頃異常に親鸞に惹かれます。
別に仏教に帰依したいというのでない。
個人的には浄土真宗と親鸞とは別物だと感じていて、親鸞の宗教性ではなく彼の宗教観が愛おしい。

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