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2006年5月28日 (日)

功名が辻 (21) 開運の馬

山内一豊といえば馬の逸話である。
10両という貨幣価値と、千代の持っていた金の価値が等価であったとは考えにくいが、そういうことはあまり触れられないね。
10両という貨幣単位が出現したのはいつのことかはわからない。
農本位制から金本位を経て国家の信用による貨幣社会しか知らない今の人には、当時の価値という物はわかるまい。

黄金一枚と言うのは、貨幣ではない。
貨幣として製造されたものではなく、金のカタマリとしての価値としてしか彼らの頭にはないはず。金に対して貨幣と言う価値を最初に与えようとした のは秀吉であると思う。彼の治世は短くて、貨幣社会を見ることはなかったが、徳川家はそれを引き継いだ。つまり金貨が出現したのは、江戸初期である。だか ら一豊の意識としては、「金貨で物を買う」のではなくて、「金と馬との交換」でなければならない。なのに、一豊は「これで馬を買いに行こう!」という。
それは正しくないなあ。
名古屋にある貨幣史料館へ行って勉強すべし。

もうひとつ、信長の表現が破綻してはいないか。
「おれは神じゃ、仏じゃ」
「わしは狂ったのじゃ、狂ったまま神になってやる」
などいうが、そのシーンでは帰蝶に優しくことばをかけているし、ラストではわざわざ陪臣である一豊の妻まで呼び出して労っている。こういう細かいところまで心が行き届く人間がキチガイであろうか。
帰蝶はそういう信長を気違いだと思っている。
しかし一視聴者(帰蝶よりも歴史的水推移を知っているという意味では、われわれだって、神である)ですらそういう見方を否定する知識を持っているいるのに比べれば、帰蝶の考えが必ずしも正しいとは言えないと思うのだ。
劇中で光秀と帰蝶の使い方はドラマとして大変に面白いとは思うが、そういった細かいところにはどうしてもほころびがでるものだと思った。

二面性はあるかもしれないが、織田信長という人間は、二重人格でさえ制御してしまう冷徹さをも持ち合わせている。あの時点で彼は神であり仏であったという想いをぼくは否定しません。むしろ「神だから死なぬのじゃ」というのは、神のみぞ知るところ。
そう、われわれもまた神なのです。

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