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2006年3月23日 (木)

屋上の達人(1) 名古屋市千種区見附町

DVC00004s

http://map.yahoo.co.jp/pl?nl=35.9.31.140&el=136.57.51.418&la=1&fi=1&prem=3&sc=3
見附とはなに?

見附というのはどうやら様々な意味を持つようで、特定の物をさす言葉ではないようです。
ある時は、富士山を「見附」る場所であったり、宿場町の入り口も「見附」と呼んだりする。千種区の見附の所以はなんだろうと考えてみた。

あくまで素人の推測と予測、そして想像であると前置きして。

この町は、現在広小路通とも東山通とも末盛通とも呼ばれているかつての谷を挟んで、織田信秀が築いた末盛城と向かう合う位置にある。東には菩提寺・桃厳寺を控えて、当時の織田家にとっては中枢と呼んでも差し支えないほど重要な地域であったと思われる。

織田家の強敵のひとつ、駿河今川家。
駿河〜三河から尾張に攻め込むためのルートは主にふたつ。
後に今川義元が使った東海道と、岩崎方面から高針街道(というのか?)のふたつ。この城が今川の攻撃に備えたのであるとすれば、高針街道からの押さえの一環か。押さえというよりはもう那古野城・古渡城ののど元である。
高針街道沿いには重臣柴田氏のいくつかの氏族も城を構えていたらしい。

話を戻す、見附の所以である。
末盛城と見附町はあまりに至近距離であるし、今川氏は結局こちらから尾張に攻め込むことはなかったので、敵方にとっての「見附」ではないと思われる。末盛城の出城があったなんていう考え方はどうか。
城という大規模なものでなくても、伏兵を置ける様な小規模な砦。織田家はそんなものを東海道筋にはたくさん作ってましたもんね。
それを「見附」と呼んだ。

もうひとつあるが、これは歴史的裏付けがないので99%予想。
この東に唐山という土地がある。
いつの時代に名付けられた地名かわからないので、「唐」がどこの国の人を指すのか不明ですが、そういう人を「唐山」に押し込めて、それを見張る為の施設があったところ。つまり「見附」。

自分で書いてて思い出したけれども、尾張藩はキリスト教に対して
比較的温和な政策をとっていましたが、あるとき、幕府から厳しく取り締まれと指示があり、信者を処刑した場所が古渡城付近。そして「唐人」キリスト教関係者を収容した地が唐山ではないかと思ったりしてみました。いや、これも想像を域をまったく出ませんが。

ここらは実は新しい土地であって、古い土地であるということを今日再認識しました。
ちなみに真ん中の緑が末盛城跡。
森から立つとんがり屋根の建物は、現在某大学の所有になってはいますが、旧陸軍の施設だったと記憶しています。そしてその建物が建っている場所が、末盛城の二の丸跡。

見附町のほぼ最高地から末盛城を撮影しました。

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