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2006年2月21日 (火)

美濃高須の文化と歴史(3)

前出の地元の方は堀田をずっと見てきたそうです。
30年ほど前なら多少は残っていたそうな。

「子供の頃に輪中は知りましたけど、これほど規模の大きな物ものとは全然知りませんでした」
「おっ学校で?」
「輪中の存在は習いましたけど、堀田までは触れませんでした。遠足で連れてきてもらえたら、生きている堀田を見ることができたんですね...」
「でも堀田は大変ですよ。今の農家だったら絶対やっていられないようなものでしたから」
「そうですよねぇ、どうみても効率悪そうですもん(笑)。見るだけの方は身勝手なことばっかり言いますからねー^^」
などという会話をかわしたものです。
本当に見たかった、一面の堀田を。
きっと「これが日本人の知恵なんだなぁ」と感動したろうに。
おそらく、自分と同じように感じていたのが、大垣出身の河合孝氏であったでしょう。
きっと地元の人々は一日も早く堀田から解放されたがった故に堀田は怨嗟の対象となり、写真として保存することすらいやがった。その美しさはきっと部外者にしか理解されなかったのではないでしょうか。その中の一人が河合孝氏だったのでしょう。彼は輪中や堀田の美しさに魅せられて、写真を撮り続けた。この資料館でも、その写真のいくつかが大きなボードに引き延ばされ見ることができます。

「学校の先生ですか」
なんて初めて言われましたw
学校関係者しか来ないのか、ここは!。.:♪*:・'(*⌒―⌒*)))

自然を力で押さえつけることと、妥協すること。
それは従来の日本人の予想を上回るものであったと思います。
自分勝手な言い分ではありますが、一の力を抑制するために二の力を使う。
自然は人間に挑むものではないけれど、いつかはきっと三がある...
日本人は厳しい自然を相手にだましすかして、どうにかやってきたのです。
それは妥協の連続だったかもしれませんが、時には為政者の保護があったりして、とにもかくにも農民たちの糧となり得てきた技術なのでした。
それを西洋の新しい技術で以て一気に完全なる形で制圧した。
三川分流工事では吉とでました。
自然は19世紀末の土木技術で押さえられる程度の自然災害でありました。
が、それが正しかったことなのかどうか、という疑問が胸に灯りました。

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