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2006年2月20日 (月)

美濃高須の文化と歴史(2)

DVC00006_M木曽、長良、揖斐(古くは伊尾)、この三つの川を木曽三川と呼んでいます。
薩摩藩の分流改修工事から約130年ほどして、こんどは明治政府による三川分流工事が計画されました。
今回は西洋の先進治水技術を取り入れるため、オランダのヨハネス・デレイケをを投入しました。
彼は完全なる三川工事分流工事を目指しました。
すなわち、食い違い堤であった油島堤防で長良川と木曽川を完全に遮断する。
同時に三川の川筋を直線的にすることで、抵抗を減らして堤防の負担を軽減する。
同資料館には、もくろみ書をはじめ、計画ごとの書類が展示、比較できるようになっていて、その規模の大きさを見る時、西洋技術の偉大さを思うのでした。

お雇い外国人は大勢日本にやってきました。
役に立った人、役に立たなかった人。
旧幕臣であった渋沢栄一が紡績に関係した時やってきた紡績機械の技術者は年間6000円だかの高給取りであったにも関わらず、何の役にも立たなかったと聞いています。いわゆる「食わせもの」というやつですか。
結局のところ、個人の性格だったのでしょう。
しかしデ・レイケは政府が期待した通りの活躍をしました。
資料館を辞したあと、彼が設計したとされる羽根谷巨石堰堤も行きました。
さぼう会館も行きました。
が、彼のことはわからない。
さっそくAMAZONで「日本の川を甦らせた技師デ・レイケ/上林好之(元・建設省近畿地方建設局河川部長」
なる本を買い求めました。

話が飛びすぎますな^^
IMG_8355 IMG_8364

次なる展示は第二の特徴、堀田(ほりた)です。
資料館の入り口に再現されていたアレです。
高須輪中では開墾のため土を掘ると、水がわき出してしまうのだそうです。
掘った土を高く盛ることで、水田をつくりあげるのだそうです。
水を制圧できなかった当時の人間の最大限の知恵ともいうべき施設です。
どう考えても農地効率は悪いのですが、その反面、長所もあります。
土を掘ったあとの溝部分(これを溝つぶしという)は河川とつながり、当然のことながら魚貝類が入り込みます。しかも流れが穏やかですから、冬は川の本流よりも水温が高くなり、魚貝類が集まりやすくなります。農作業の傍ら魚や貝を捕まえては副食として利用したのです。「ひょうたんから駒」ともいうべきですが、長所はまだあります。魚貝類が餌(動植物性ブランクトン等)を食べて糞を排出すれば、それは水中でイオン化し有機肥料として機能します。つまり、堀つぶしの水を使って耕作すれば肥料分も通常より少なくて済むということ。まさに一石三鳥なのです。
しかし米としての実入りは少ない。
長い間米本位経済で成り立ってきた日本経済では許されざる農耕環境だったかもしれませんが、当の耕作人たちは食べる物に困らず、幸せを感じていたように思います。美濃高須藩の安定した領地経営はそれを裏付けているのではないでしょうか。いわゆる名君がいなかったのに大きな問題が起こらなかったのは、そういう経済環境にあったからこそだと考えます。

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