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2006年2月13日 (月)

美濃高須の文化と歴史(1)

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「旧海津町になにがある?」
立派な資料館を作って残さなければならないものがあるのか。
といった疑問が、この施設をずっと通過させてきました。
近いということもあるんだけれど、心の中では間違いなくバカにしてました。
でも美濃高須藩が尾張家の連枝であることは知ってました。
美濃高須藩出身の幕末の悲劇の雄、松平容保・定敬を輩出した地です。
どちらかというと、松平容保への興味から、足を運んだというべきでした。

建物は城郭を模した立派な三階建てで、デザインにも凝っています。
旧海津町は力を入れて建てたのでしょう。
ウワサによれば20億かかったとか。
立派な資料館は地区の文化水準を押し上げると思っていますから、むしろ攻めの姿勢を意欲的に感じて好ましい。

海津市歴史民俗資料館は堂々たる濃尾平野の西端に近い、吹きっさらしの中にこつ然と立っている感じ。
回りには何もなく、大江川がこの美しい建物を水面に映しているのみ。
隣にはプールと大きな駐車場があり、海津市の文化の発信地にしようという試みなのかもしれません。
敷地内に入ると、堀田(ほりた)と呼ばれるこの地域独特の水田が見られます。(後述)
その横には巨大な排水機と、堀田を埋め立てる時に使った機関車が2台の箱車を従えて静かに鎮座しています。

この建物は特殊なデザインで、入り口は二階のみ。
一階はガラス張りで、ホテルのロビーのよう。
おもわずそちらへ目が向くけれども、入り口は二階です。
巨大な階段を上がって受付。
料金を払って順路に従い二階展示室に入る。
まずは海津の特殊性その一、輪中の紹介です。
大きな川に洲ができて砂が堆積し、人が住みだしていく様を順を追ってバネルで紹介しています。

○なぜ川の真ん中の様な危険な場所にわざわざ住むのかー。
●ー肥えた砂が川によって運ばれるから。常に肥沃な土地である。

その土地に生きるため、この地域の人たちは古くから多大な苦労をしてきました。
その苦労を払拭するため、江戸幕府はこの地域になんの縁もゆかりもない、ただ裕福であるという理由だけで遠く南九州の薩摩藩に改修工事を命じます。
薩摩藩は兵馬に問うことなく美濃高須にやってきて、当時としては空前の大工事を完成させました。
薩摩藩の死者は85名。
その中には幕府のやり口に憤慨して切腹した者もあったようです。
工事の概要も地図で示されていますし、憤慨してなくなった(と思われる)者の弔いを依頼した書面もあります。
そういった事情を知った上で見ると、薩摩藩の気分というものが透けてみえるようです。
逆に言えば工事を完成させた上で腹を切ることが、薩摩武士の生き様だったのかもしれません。
総奉行平田靫負は工事費の責を負って自裁したと、学校では教えられましたが、実は薩摩藩の総意をたった一人の命で示してみせた、とぼくは見ました。それでこそ薩摩武士であると。
幸いなことに、ここで地元の方と話す機会を得ました。
「わたしたちが子供の頃、『薩摩の人たちには感謝しないかん』と教えられた」そうです。
それだけ薩摩武士は立派であり、押し付けられた仕事だからと投げ出すことなく、真摯にこの仕事を成し遂げた。
地元の人たちにも伝わったのでありましょう。
戦国を経て150年。
腐りきった「直参旗本八万騎」に対し、薩摩がいかに武士であったか示される事件でもありました。

平田靫負の辞世。
「住みなれし 里も今更 名残りにて 立ちぞわづらふ 美濃の大牧」
涙なくしてよむことができませぬ。

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